《亜流から生まれたセブンFW》


 その念願をクラークがかなえてくれた。当時の蹴球部はスクラムサイドの守りに課題があった。試合になるとYC&ACが誇るトットン=ワードの強力なハーフペアとFW第3列のファーゴットにスクラムサイドを破られ崩れていく。強化のポイントを熟知しながら対案を見出せない蹴球部の現状。しかし、相手FWの押しはそれほどでもない。蹴球部にとってオールブラックスのセブンシステムは理想的なフォーメーションと映った。もちろんその年度(1908年11月14日)の第11回YC&AC定期戦に、速成ながらNZ式セブンシステムを駆使して快勝することができた。それも12−0のスコアが示すように完勝である。日本ラグビーの歴史に初めて刻み込まれた感激の初勝利。偉業と称えられる結果ではあった。
 ただ、小題でわざわざ「亜流」と断ったのには理由がある。それは2−3−2のFWと2FE(ファイブ エース)&3TBというオールブラックスの特異なフォーメーションをそのまま採用している点。確かにスクラムサイドの守りは期待通り機能してYC&ACの攻撃の芽を摘み取り、得点も初めて4トライの12点を記録することができたが、21日後の新システム採用第2戦では0−25と完敗。翌1909(明治42)年1月の第13回定期戦でも0−19とゼロ敗している。少なくとも蹴球部が採り入れたNZ流のセブンシステム。スタートはよかったが、すぐメッキがはげたともいえるだろう。
 3年ともたなかった理由について田辺九万三の指摘は鋭い。その第1はルーズヘッドを相手に取られること。そして第2のそれは球がスクラム中央に入りにくいこと──の2点をあげ、「そのためにはやはり第1列を3人にしなければならない。球をフックする瞬間に対等であればそれでよい。短い時間であればクイック・ヒーリングでも対抗できる」(田辺九万三)と結論づけて、亜流から慶應義塾独自のシステムへと移行していった。FWは第1列を3人にする3−2−2のセブン。ハーフはローバー(遊撃=歩き回る人の意)と称するフライングハーフを新設する3HB制。そしてTBラインはエイトシステムの長所を生かした4TB−1FBというのがその全貌だった。第9代主将田辺九万三の年度である。
 蹴球部はこのシステムを駆使して1911(明治44)年の第1回慶應・三高定期戦に勝って以来1927(昭和2)年の第6回早慶定期戦に初めて敗れるまで、17年間にわたって日本チームとの対戦に無敗を続けた。