慶應ラグビーはYC&AC(横浜)、KR&AC(神戸)の2つの外国人クラブと定期的に対戦することで育っていった。国内に存在するチームはこの外国人で構成する2チームだけ。対戦回数が進むにつれ東京でもYC&ACとの定期戦は行われるようになったが、東都の大学生や中学生たちがラグビーへの興味を示す動きはまったくなかった。もちろん、蹴球部員がみずからのチーム強化だけに没頭していたわけではない。外部への働きかけが早くから行われていたことを六十年史は伝えている。
例えば群馬県太田中学。1907(明治40)年の夏季休暇に福島荘平がチームメートの竹野敬司をともなって母校を訪問。一度は普及に成功しながら指導者に欠いていつの間にか消滅してしまった。田辺九万三によると「中学スポーツは指導者の熱意如何がその盛衰を支配する事は今日も同様である」となる。
普及活動は大田中学だけではない。田辺九万三は「①学習院から四名習いに来る。三島、柳谷、外二名。②一高へエキシビションゲームをやりにいく。③次は大田中学(群馬県)、三連隊等。④田宮(弘太郎)は
三高、同志社等に宣伝す」と記したメモ書きを残している。
京都出身の田宮弘太郎は1905(明治38)年卒業となっているから田辺九万三の7年先輩である。このメモから推察すれば、太田中学へのアプローチ以前に早い時点で京都勢を対象とした蹴球部員の活動が始まっていたことを示唆しているともいえるだろう。ただ慶應義塾学報は田宮弘太郎が卒業まもなく他界していることを伝えている。田宮先輩の京都での普及活動がメモで終わっているのも、田宮弘太郎の早世に理由があるのかもしれない。