《古都京都にラグビーの息吹が》


 草創期に東都でも学習院や旧制の第一高等学校(以後一高)でラグビーに関心があったことはわかった。学習院は田中銀之助がケンブリッジ大学留学前の母校であり、一高はクラークが慶應在職中に英語講師を務めた高等学校。期せずして慶應義塾にラグビーを紹介し、育てた恩師にも縁のある学校ではあったが、太田中学同様なぜか両校とも活動が途中で消滅。「明治大学にもコーチして中野のグラウンド迄行ったが之も中絶した」と六十年史には岡野豪夫の記述が残っている。
 このように史実を調べてみると、東京でもラグビー活動の機運は起こりかけたようだが、いずれも消えていった。もちろん、それにはいろいろ理由はあるだろう。ここでひとつはっきりしていることは、この前史の冒頭で述べたように慶應義塾でラグビーが根付き、育っていった条件を各校持ち合わせていなかったことである。慶應義塾にとって東都での普及活動は不運の一語に尽きるが、遠く離れた古都京都に蹴球部と同じような土壌をもった一団が存在した。第三高等学校である。
 官立と私立、大学と高等学校。両者の間には違いこそあったが、慶應義塾予科と三高は同年代。まして草創期の蹴球部メンバーには普通部生(旧制中学)も含まれていたことを考えれば違和感はなかっただろう。若くして逝った田宮弘太郎の遺志は、5年後の1910年夏に同じ京都出身の後輩真島進(1912年卒業)によって結実した。