三高という官立の高等学校がもっていた土壌とは寄宿舎制であり、若者の特権ともいうべき未知への探求心であり、旧制高校独特の青春への謳歌である。慶應蹴球部員真島進のラグビーへの誘いにのめり込んでいった三高の堀江卯吉とその仲間たち。ちょうど11年前、クラークの話に触発されて無我夢中でクラブチーム結成に奔走した猪熊隆三らの行動がダブってくる。この間の事情を伝える三高嶽水会蹴球部史を引用させてもらおう。
「そのラグビー・フットボールの楕円球が、東京をへだたる500キロの京洛の地に明治43(1910)年初夏、突如として、さわやかなキックの音を響かせたのである。これは、慶應のチャンスを逃がさぬ積極的な普及活動の熱意と、当時の三高生中村愛助(明治44年卒)らが学生の気風を嘆き『若人の血を湧き立たせるような方法はないものか』とスポーツを好む同志とともに語りあっていたギョウ望とが、いわば渾然一体となった結果であるといえよう。その直接の機縁となったのは三高三部(医科)の堀江卯吉(岐阜中学卒、のち真島姓。明治44年卒)と慶應蹴球部選手真島進との間に発生した姻戚関係(堀江卯吉が真島家の婿養子となる)である。真島進が楕円球を京都市下賀茂の堀江の下宿に持参した背後には、時の慶應蹴球部主将田辺九万三の『官立学校三高』を重視したうえでの配慮があったであろうことが彼の遺稿によっても推察される」と、当時の土壌を語り、つづいて動機にも触れている。
京都出身あるいは在住のラガーマンの方なら下鴨神社(注)境内「糺(ただす)の森」に京都ラグビー発祥の地を伝える記念碑が建っているのをご存じだろう。これは生まれて初めて見る楕円球を手にした堀江卯吉が、下宿近くの糺の森で真島進指導のもとに第1蹴を飾ったことを記念し、かつ京都ラグビーの黎明を伝えるモニュメントでもある。日本のラグビー界でこの種の記念碑が他にあるとすれば、慶應義塾蹴球部日吉グラウンド(横浜市港北区)の日本ラグビー発祥の碑ぐらいではないだろうか。
嶽水会蹴球部史はさらに「あるいは先進者慶應の示唆があったかも知れないが、多数を要するラグビーの部員集めでは、まず寄宿舎が格好の標的になる。明治43年9月の新学期開始と同時に堀江卯吉は慶應選手真島進を伴って、まず寄宿舎の委員室から勧誘工作を始め、順次室長を通じての部員獲得という巧みな方法で極めて短期間に、ひと通りの部員集めに成功することができた。(第三章の中村愛助および玉置徐歩の回想文参照)」とあり、三高蹴球部の短期成立が寄宿舎制のあったことを語っている。
(注)広辞苑によると「下鴨神社とは賀茂御祖(かもみおや)神社の通称。上賀茂神社に対する。」とある。