《日本チーム同士が初めて対戦―新時代の幕が開けた》


 三高のチームづくりは早かった。秋晴れの1910(明治43)年9月23日に初練習。これには真島進も帰京を延ばして参加し、慶應蹴球部編纂の技術解説書「ラグビー式フットボール」を片手に、ラグビー精神から基本的なプレーに到るすべてを教えたという。その後も慶應蹴球部からは真島進(FW)、杉本貞一(HB)、真島国松(TB)のトリオが春休みを利用して三高蹴球部をコーチしたが、創設者のひとり中村愛助は次のような感謝の文を部史に寄せている。
 「ボールが古くなり、又練習中不可解な点があれば、直ちに、慶應に書を送って補給せられたり、運動としての解答を得たので、書信の往復が絶えたことはなかった。その都度田辺九万三氏からは、噛んで含めるやうな親切な教えを受けたもので、国内に唯一の好敵手を作る氏等の努力と、物質的の諸援助とは、我が母校蹴球部創設に当たって絶大な力を与えてくれたもので、此の点に鑑みても、吾人母校蹴球部と慶應とは離るることの出来ない美しい結合のあるものたることを忘れてはならないのである」──と。
 こうした慶應蹴球部の念願は1911(明治44)年4月6日、三高蹴球部を三田・綱町グラウンドに迎えてかなえられた。史上初の日本チーム同士が対戦という歴史の1ページを飾る対戦となるわけだが、慶應サイドの心配りは慎重にも慎重を極めた。
 ホスト役の慶應義塾が組んだプログラムはまず練習マッチで第2チームが三高の相手をする。メンバーの編成もまだ普通部2年生の塩川潤一をSHに起用するなど第1回定期戦を後に控えた三高への配慮がにじみ出ていた。もちろん結果も主将田辺九万三の思惑通りに運んだ。3−3の引き分けでノーサイド。三高側はCTB国光が先制トライをあげるなどまずまずの試運転といった滑り出しだった。
 そして迎えたこの日のメーンイベント。練習マッチのメンバーから本戦に名を連ねているのはバックロー7番の増田鉱太郎ただひとり。第1選手でチームを組んだ慶應蹴球部はやはり強かった。慶應義塾が前、後半合わせて10トライ、1ゴール、1PG、1DGと得点方法のすべてを披露。チームを結成してまだ7ヵ月が過ぎたばかりの三高は無得点に終わった。
 慶應側がセットした夜の第2ラウンドは「すでに数日間ともに球を中心に過ごした間柄だから、どちらがお客やらわからない気安さでメートルが上がり、慶應方すこぶる苦戦…」(百年史から)と比叡山の荒法師三高側の圧勝で幕となったが、勝敗はともかく三高ラグビーの誕生には、勝敗を超える大きな意義があった。
 第1に11年つづいた慶應ラグビー孤立の時代にピリオドを打ったこと。そして第2は日本を代表する東と西の新旧首都に2チーム並立の理想的な形が出来あがったことである。車に例えるならようやく両輪がそろったことになり、日本ラグビーの全国化という未来展望の視点で今後の活動面をとらえた場合、バランスのとれた展開が望めるという利点にもつながっていく。ある意味では全国のラグビー行政を統括する拠点はこの瞬間に出来あがったともいえるが、早計に過ぎるだろうか。
 テープを戻して本来の主題の締めくくりに移ろう。この日本最古の定期戦は1949(昭和24年)1月4日に京都・吉田山の三高グラウンドで行われた試合で幕を閉じた。理由は戦後の学制改革で三高が京都大学(以後京大)に併合されたことによる定期戦の消滅ではあるが、記録面からいえば31回の対戦で6−6(1916年度)の引き分けが1度あるだけ。三高は最後の試合にも11−26のスコアで敗れ、ついに定期戦で勝利の美酒を味わうことがないままフィナーレを迎えることになった。
 珍しい記録ではあるが、三高京大のコースを歩んだOBのなかには年代によって大学時代に打倒慶応の夢を実現した選手もいる。京大と慶應義塾の対戦は1923(大正12)年度に始まり、三高消滅の1948年度まで22回対戦して勝利は9回。慶應義塾の戦前の記録を調べてみると、同じ帝大でも東京の対慶應戦全敗に対し、三高卒業生が主力を形成していた京都は対戦の半数近い勝利を記録していることに注目したい。
 ただ東京大学(以後東大)の名誉のために付記しておきたい。確かに戦前は全敗に終わった東大が戦後の復活定期戦では1946(昭和21)年、1947(昭和22)と慶應義塾に連勝しており、喜んだその年度のフィフティーンが後に慶應側を招待して慰労会を開き、その名残が名称を「仲間の会」と変えて現在もつづいているとか。このあたりにも定期戦全盛時代の側面がうかがわれるとともに、古き良き時代の日本ラグビーを支えたオールドボーイズたちの心情がビビッドに伝わってくる。