早稲田大学にラグビー蹴球部が誕生した。慶應蹴球部のケースと同じように最初は倶楽部チームとして発進。その日を
早稲田ラグビー六十年史は1918(大正7)年11月7日とし、創部の日と定めている。孤独の活動を余儀なくされてきた慶應蹴球部にとっては長い19年ではあったが、東都で早慶両校がそろったことの意義はまことに大きい。
たしかにラグビーという外来のスポーツは古都京都にしっかりと根をおろした。このことはまぎれもない事実ではあるが、全国化の視点で検証したとき、京都中心の西に偏る動きははたして正常な形といえるだろうか。楕円のボールには二つの定点がある。京都を西の定点とするなら、
日本ラグビー発祥の東京は東の定点となるはずだが、その東京に慶應蹴球部の相手となるチームが皆無だった。そのような「ゆがんだ構造」が形成されつつあったところでの
早稲田ラグビーの登場である。これで楕円球は東西二つの定点をもつことができた。
早稲田といえば大学創立いらい、何かにつけて慶應義塾とライバル視されてきた大学である。早慶の並立は東京だけに限定した一地域の発展はもとより、ラグビー活動の全国化という点でも歴史の分岐点となった。
早稲田ラグビーの成立がそれほど大きな出来事だったことは、その後の
日本ラグビー界の発展ぶりが如実に物語っている。