早稲田ラグビーの歴史を語るとき忘れてならないのが京都人脈の存在である。
早稲田ラグビー六十年史第1章「草創時代」の要旨を転載させてもらおう。
「当時獨法科に在籍の同志社中学出身西村聡が戸塚球場上の北越館に下宿していた。そこに同級生である岩崎条雄が毎日のようにぶらっとやって来た。岩崎は慶應普通部出身であり、多少ラグビーの経験があるので、話は次第にエスカレートしていった。そこで西村は同志社中学の一年先輩の井上成意や兄が
三高選手だった国光素介等に相談を持ち込んだことから、とんとん拍子に進展していったのである。その中で年長である井上は熱心に陣頭に立って奔走した。同志社の知友から古ボールをもらい、土台作りに取りかかった」
早稲田ラグビー六十年史はまず京都出身者を中心に創部への行動が始まったことを記しており、創部の中心となった井上成意も「斯技の発達のためには早慶の野球のそれの如く、早慶の間に対抗的にこの競技を行うことを念願し、かつ、いやしくも私大の雄、
早稲田にラグビーの如き勇壮なる競技の存在せざることを遺憾として、幼年より親しめる楕円球を初めて戸塚球場に持ち来り、同志と共に、蹴球せるがそもそも
早大ラグビーの濫觴である。」と綴っている。
井上成意のいう同志とは同志社中学出身の西村聡、玉貫力、増田修、兄が
三高のラグビー選手だった国光素介、弟が同志社の有名な陸上選手だった大久保謙治ら京都出身者や慶應普通部から
早稲田大学に転じた岩崎条雄らを指している。言葉を変えれば
早稲田ラグビーとは、大学進学前の中学生時代に
三高、同志社大学で始まった京都ラグビー勃興の様(さま)を肌で感じ、先輩たちの情熱に魅せられた有志によって創設されたといえるだろう。
さらに同六十年史を紐解いていくと、「第2章 興隆時代(大正14年度)」の冒頭に興味ある記述が掲載されていた。「草創の時代にわが部の造成、発展のために苦労を重ねた諸先輩はすべて学窓を去り、新進気鋭の若人と入れ代わった新旧交代の年にあたる。大正11年以降に入部したものばかりとなり、京都勢に部の運営を委ねられることになった。この京都勢5名は学院を経て、学部に移ったばかりであって、豪快のうちに包容力を持つ兼子(義一)を主将に、片岡(春樹)、清水(定夫)滝川(末三)、本領(信次郎)を委員として刷新の第一歩を踏み出した」がその内容。(清水定夫を除いた片岡春樹ら3委員はいずれも主将経験者)。
この一事をみても、戦前の
早稲田ラグビーと京都の密接な関係がわかろうというものだが、これだけではない。時代は変わって昭和にはいると
早稲田=京都の関係はさらに鮮明に浮かび上がってくる。この昭和初期に
早稲田ラグビーをリードした歴代主将には柯子彰、松原武一、野上一郎、川越藤一郎、村山礼四郎ら京都出身者が名を連ねているばかりか、彼ら主将群はいずれも名将、知将と称えられ、かつ
日本を代表する名選手、大選手でもあった。
戦後の
早稲田はいざしらず、少なくとも発祥から戦前の
早稲田ラグビー黄金時代を語るとき、京都出身者なくして「北風のラグビー」は語れない。それほど
早稲田と京都の関係は強烈な結び付きを保ちながら進化の道を歩み、そして今日を迎えている。これが
早稲田ラグビー戦前の部の歴史である。