《部活動の発進を阻む早慶交流の断絶》


 東都でなぜ慶應ラグビーの孤立がつづいたのだろうか。まず考えられる最大の理由は早慶スポーツ交流の断絶である。慶應義塾体育会創立百年記念誌によると「1906(明治39)年11月11日の早慶野球試合決勝戦は両校の応援白熱し、危険を伴うおそれがあるため中止、以後、大正14年秋まで行われず」と短い記述で野球の交流中止を伝えているが、両校体育会のこの決定は単に野球だけの中止にとどまらず、すべての早慶対抗競技の交流断絶を意味するものだった。慶應OBの橋本寿三郎が母校の六十年史でこの問題に触れている。
 「当時早慶両校は全面的に両者間の対抗試合を禁止して居った。これは野球試合の応援隊並びに観衆の態度に因を発したもので、早大側は余り問題としなかったが慶應側は学校当局もさる事ながら、評議員会が決議となっているのでこれが決議を無視しては当局も遂行できぬ羽目にあったが、スポーツの興隆に伴い観衆の態度も次第に改善されてこの問題は早晩円満に解決さるべき状態になって居った。早稲田出版の日本ラグビー物語その他の記録には慶應の体育会会長板倉(卓造)理事が特に反対意見を表して居り、これが説得に第三者が動いた様に記述してあるがこれは全々誤りで、早慶試合は第三者の進言や忠告で出来上がったものでなく、早大の積極的な熱意と慶應が指導的な立場にあった事が原因して極めて円満容易に進行したものである」(慶應六十年史・橋本寿三郎)
 確かに橋本寿三郎の記述通り早慶ラグビーの実現は両校関係者の熱意と努力がもたらしたものと評価できるが、一部メディアがいう「第三者」とはAJRA(後述)を指しているのだろう。それはともかくここでは早稲田ラグビーの創部から発進への行程に両校交流の断絶が大きく影響した点を強調しておきたい。早稲田の創部は1918(大正7)年11月だったのに対して、第1回早慶定期戦が現実のものとなったのは4年後の1922(大正11)年11月23日。創部はしたものの遠く京都の旧制高校(三高)や外国人チーム(YC&AC)としか対戦できなかったことは、早稲田にとって不運の発進としかいいようがない。ラグビー創始校慶應義塾が嘗めた東都での対戦相手不在の辛酸を、いままた早稲田も経験しつつあるというわけである。
 こうした新しい仲間の窮状に手を差し伸べたのが慶應蹴球部である。早慶の間に立ちはだかる「交流断絶」の壁は確かに高くて厚かった。しかし「何か方法があるはず」と思考を重ねたすえに慶應サイドが編み出した妙案。それは恒例の塾内ラグビー大会に早稲田を招待することであった。この誘いに答えた早稲田側がまた秀逸だった。大学開祖、大隈重信侯の名前を英語でもじった「グレートベア(GB)」名に切り替えるなど、慶、早ともに大学当局への刺激を極力避けるいかにも学生らしいユーモアたっぷりの見事な計画で早慶初の顔合わせをやってのけた。
 もちろん1919(大正8)年11月9日の塾内大会(三田綱町グラウンド)は大成功だった。招待チームのGBは第1試合の慶應普通部戦を0−6、つづく第2試合のOB・学生混成チームとの対戦も12−14の2点差で惜敗と、2試合とも敗れはしたものの、創部1年目の若いチームである。当日の報道にあたった時事新報は翌10日付けの紙面で「本邦ラ式蹴球の模範試合とも云うべき立派の試合であった」とGBの健闘に最大級の賛辞を贈っている。試合の形式はどうであれ、早慶両校の当事者たちがたとえ前哨戦という形であったとしても、念願の早慶ラグビーを実現したことの意義は大きい。第1回早慶定期戦時の慶應蹴球部主将で、この前哨戦にも学生として出場した大市信吉が「この日が極めて友好に満ちたフェアーゲームで終わったので、塾先輩も決意が出来て、遂に早慶戦の正式交渉が軌道に乗ったのである」と六十年史に記している。