《早慶定期戦と主催者AJRAの役割》


 早慶定期戦の実現までには紆余曲折(うよきょくせつ)のあったことはすでに述べたが、早慶両校の当事者たちは立ちふさがるネックの解消に向けて、どのような策を講じていったのだろうか。慶應OB橋本寿三郎は「早慶試合創始当時の思い出を記載するに当たってこの試合の創始者とし指導者の立場にあったAJRA(All Japan Rugby Association)の発祥当時に遡って見る」と慶應六十年史の冒頭で、AJRAが早慶定期戦の創始者だったことを明かしている。統括機関いまだ不在の当時のこと。まして交流禁止の早慶を対戦させようとする企画には当事校の学生だけではクリアできない問題があったわけで、それらを処理し、早慶定期戦実現を主導したのがAJRAというのである。
 日本ラグビーの歴史の中に突然登場したこのAJRAとは…。まず名称を日本訳すれば「全日本ラグビー協会」となる。この表記からは日本のラグビーを統括する現在の日本協会の前身と錯覚するが、設立当初は単なるOBたちの親睦団体。創立が1年早い関西ラグビー倶楽部(後述)に対抗するのを目的とした組織の結成だった。設立趣意書にも「ラグビーを愛好する紳士の集まり」とはっきり謳い、橋本寿三郎も「ラグビーの行政面を指導担当する意図など勿論無かった」としながらも、こと早慶定期戦の実現に関するかぎり事情は違ったようだ。「実際は指導的立場にあった慶應出身者が多数であるのとこれに三高、同志社出身者を加えた団体であるから、関東にあった(ては)ラグビー界の中心機関化し(として)早慶試合を主催するなど、ラグビー協会の前身と見做さるような立場にあった」と記述の後段で、AJRAが単なるOBの親睦団体から主催者へと移行していった経緯を述べているが、この点については組織の構成メンバーをみればいっそうその感を深くする。
(注)下線部分のカッコ内は原文解釈のため編集委員会が補足したもの。
 まず創設時の会長に田中銀之助。そしてメンバーには慶應を筆頭に、三高、同志社という東西のラグビー先進校のOBたちが名を連ねている。この顔触れをみて何が想像されるだろう。時代の趨勢とはいえ、AJRAが建前だったはずの親睦団体からしだいに関東の「中心機関化」へと変貎をとげざるを得なかったことが役員の構成からも指摘できる。その目的転換の第一歩となったのが早慶定期戦の主催であり、主役を演じたAJRAの成功は好むと好まざるとに関わらず親睦団体だったはずのAJRAを、関東協会へ、そして日本協会設立へと加速させていった。言葉を変えれば早慶定期戦の実現は日本ラグビー近代化への出発点ともいえる画期的な出来事だったわけである。
 それはともかく、AJRAが早慶定期戦の実現へ動き出してからの行動は適切かつ素早かった。委員橋本寿三郎は何よりもまず母校慶應義塾の体育会会長板倉卓造から暗黙の了解を取り付けたあと、早慶両チームを築地のAJRA倶楽部に招いて懇親会を開催。両校選手の融和を計る一方で、試合運営の取り決めは厳重を極めた。①当日の学生入場者は制服制帽を着用。②一般人は袴の着用。③拍手以外の応援は禁止。④試合開始後の入場は認めない。⑤定期戦の開催日を毎年11月23日とする──などがその主な事前の約束ごと。橋本寿三郎によると「これがラグビーの観戦の作法だと高圧的に決め付けて置いた。当時は学生も一般観衆もラグビーはそういうものかと納得して静粛そのものであった。これが例となって観衆の静粛な態度は少なくとも関東では一つの型となって長く残って居り、関東協会もこの方針で教育して居った」となる。
 ユニークなのは開催日を固定したこと。両校蹴球部の間でどのような話が交わされたのか定かではないが、早稲田六十年史によると「9月のころ、中村(元一)は気象台に行き、統計上最も雨の少ない日を調べ11月23日を選定。」とある。この中村元一という人物だが、早稲田側の史実によると「初代マネジャー」とあり、早慶戦実現に向けての交渉では「慶應との交渉にあたり手腕をふるい、みごとに大町(清)主将の代役を務めた」と早稲田六十年史は激賞。慶應側でも大市信吉主将が「中村元一(ガン坊)は実に当事(時)異様な存在で、自身はプレーは全然やらぬがマネージメントに学生とも思えぬ、良い意味で興行師的才幹のあった人で早慶戦外伝となれば相当頁数を食う人だ」と、十数回にわたって中村元一と渡り合った印象を語っている。とにかく試合開催日を固定したことひとつをとっても、先見の明というか、非凡な発想の持ち主だったといえるだろう。早稲田側の立役者だったことに間違いはない。
 さて早慶野球の応援過熱がラグビー界にもたらした80数年前の応援規制ではあるが、橋本寿三郎の言うように、戦後もわが国独特の抑制された応援スタイルは続き、またファンも「これが紳士のスポーツ、ラグビーの応援」と理解していたむきがある。こうした風潮に風穴を開けたのが日本ラグビー界の国際化だった。とくにワールドカップ出場の日本代表に同行した多くのファンは、フィールドとスタンドが一体化したいわゆる英国風のエンジョイ型応援を目の当たりにしてラグビー本来の楽しみ方を学びとった。この現象をひと言で表現するなら「ファンの国際化」とでもいうのだろう。21世紀を迎えて日本のラグビー界を取り巻く環境も大きく変わりつつある。
【第1回早慶ラグビー定期戦記録 1922(大正11年)11月23日】
第1回早慶定期戦対戦記録表

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