《ラグビー界に衝撃の入場料徴収》


 早慶定期戦の実現はわが国ラグビー界を「近代化」という軌道に乗せて走りはじめた。その象徴のひとつが入場料徴収問題である。すでに第1回定期戦の事前打ち合わせの席上で、はやくも入場料問題が議題に上がっている。交渉の席についていた慶應蹴球部の大市信吉主将は「とくに観客整理の一方法として、入場料徴収を早稲田側から提案されたが、まだその時機にあらずとして取上げるに至らなかった。入場料問題はこの際初めてぶつかった問題なので先輩間にも、学生間にも相当論議もあった」と、自身の感想を述べているが、「ラグビーは本来プレーしてプレーヤーが楽しむべきもので、観衆は第二義的なもの」というのが、慶應側、とくにOBたちの反応だったようだ。
 しかし、第2回定期戦の実施に当たって早稲田側から再度の入場料問題が提案された。早稲田六十年史ははなはだ率直かつ現実的な記述を残している。「石井カジマヤに発注した米国のタックリングマシンが震災(関東大震災)を免れて届き、その支払いをどうするのか。部費の窮迫は夏合宿を中止したほどであり、これを調達する方策として、また、場内整理のため早慶戦に入場料を徴収することを慶應側に提議した。慶應では賛否両論、長老たちはアマチュアリズムに反すると強く主張し、解決は来シーズンに持ち越された」と。アマチュアリズム対リアリズム、保守派対現実派の対立とでもいうか、このあたりに両校蹴球部の歴史と部員の考え方の相違が映し出されていて興味深い。
 ところで、入場料問題にたいする早稲田六十年史の指摘はなかなか鋭い。提案を受けた慶應側の実情を「意見が二つに割れており、そのうちの反対は長老OBである」とみごとに看破している。定期戦の初年度、2年度と2年にわたる事前交渉のやりとりで早稲田側はすでにその成否の感触をつかんでいたのだろう。この点について橋本寿三郎も「キャプテンの大市、朝桐(尉一)両君の間には大体話が纏まって居ったが慶應の先輩から異論が出た。これは主として関西在住の古い先輩からなされたもので、関東側の先輩は早慶試合の入場者の現状から見て適当な制限方法が必要であると痛感して居り、賛成に傾いていった」とあっさり認めるとともに、情報取得という点で東西OB間に落差のあったことを指摘している。
 かくして早稲田側の二度にわたる入場料徴収問題の提案は、設立されたばかりのラグビー統括機関、関東協会の手に委ねられ、1924(大正13)年の第3回定期戦から実施の運びとなったわけである。橋本寿三郎は慶應六十年史の紙上で「筆者が在塾当時、ラグビーは入場料を取らないのが一つの特色で、野球とは違う。これがアマチュア本来の形だと教育されて居った」と往時を振り返って述懐しているが、同時に「これはもちろん行き過ぎたアマチュア観」とも断じている。それはともかく、ある意味では日本の大学ラグビーを二分する早と慶ではあるが、体質というか、ラグビーに対する感覚というか、両校にはスタートからそれぞれ独特の個性が培われ、その対照的な個性は現在にも引き継がれているといえるだろう。
 なお、貴重な史料として入場料問題に関する日本ラグビー史掲載の「田辺九万三メモ」を再録しておく。この田辺メモは黒黄会の高地万寿吉(慶應蹴球部1914、15年度主将)が所蔵していたもので、日本ラグビー史編纂にあたって日本協会へ提供されたもの。ここでは田辺九万三メモの結論だけにとどめておく。
《結論》
以上ニヨレバ取ラザルヲ可トスル説幾分有力ナラズ
(イ)入場料ガ発達ヲ阻害スルノ点ニ就イテハ一考ノ余地アルトスルモ 実行ノ暁ハ却ッテ杞憂ナルベキヤヲ思フ只入場料金ヲ出来得ル限リ最低ニスル精神ヲ脱セザル事ヲ肝要トナス
(ロ)野球ト同列ニ見ラルヽ惧アリトスルモ之レハ敢テ実行シテ野球ト異ル意味ヲ暁ラシメント希望スルモノ也近来単ニ蹴球ニ止マラズ技術ノ進歩ト反比例シテ精神問題ノ閑却セラルヽ惧アルノ際 蹴球ガ率先シテ精神的昂上ノ模範ヲ示サレ渡シ世ト絶(た)チ人ト離レセ聖タルハ易シ 市井喧騒ノ間ニ処シテ聖タルコソ真ノ聖地トノ言ハ先覚者トシテ咀嚼スベキ言ナリト思考ス
即チ之レニヨリ結論スル所左ノ如シ
徴収ヲ必要トスル場合ニハ徴収シテモ可也但シ精神的ニ模範トナリテ無智ノ嗜好者ヲ誘導スル事及入場料ハ当日ノ費用ヲ支弁スルノ程度ニ止メ出来得ル限リ小額トスル事
以上
【参考資料】①「早慶ラグビー初の有料試合となった第3回定期戦の入場料は30銭。当時のオラガビールが1本18銭、コップ酒が15銭だったから30銭の入場料は決して安いとはいえなかった」(田辺九万三追懐録から)
②早慶野球中断後の大正12〜13年ごろ、芝浦球場で行われていた三田・稲門・駿台リーグ戦の入場料はネット裏3円、外野席50銭。(日本ラグビー史から)