早稲田大学に次ぐ東都第三のチーム誕生は東京帝大(以後
東大)だった。1921(大正10)年11月のことである。
日本ラグビー史は「第2編勃興時代・東京帝国大学」の項で詳しく記しているが、要約すると「京都の
三高でラグビー生活を満喫したラガーメンも3年の学業を終えてどこかの帝大へすすむと、ラグビーチームがない。
東大にもそうした足がかりは全然なかった。大正9年に、
三高から
東大にすすんだ香山(蕃)もそのひとりで、『チームがなけりゃ、自分たちでつくれば…』と、大正10年の秋から
東大でもラグビーをはじめることになった」とある。
香山蕃(かやましげる)とは
日本ラグビー界戦前、戦後を通じて超有名人である。京都一中、
東大のラグビー部創設者で、第3代の
日本協会会長を務めたキャリアがまたすごい。ラグビー界最大の功労者のひとりといっても過言ではない。香山を知る仲間たちは「ラグビーの虫」と評するが、彼もまた京都、それも
三高の出身。
早稲田がそうであったように
東大ラグビーも京洛の流れを汲む男が導いた大学のひとつといえる。その香山蕃だが、
三高時代の盟友で京都帝大(以後
京大)に進学していた谷村啓介にも呼びかけ、翌1922(大正11)に
東大が関西遠征を試みたさい、はやくも1月6日に
京大との第1回定期戦をやってのけている。こうして東西の帝大ラグビー部揃い踏みは香山の辣腕によって演出されたが、官立大学第三のラグビー部としては、同じ年に東京商科大学(現一橋大学)がある。
期せずして官立の大学3校に相次いでラグビー部が誕生したわけだが、東商大のラグビー部創設者藤野嘉蔵も京都一商から大阪高商を経て東商大に進学した京都出身者。戦後は一橋大学と校名も変わり、ラグビー部の存在そのものも輝きを失っているが、その源流をたどれば
日本ラグビー興隆に大きな足跡を残している京都人を部のルーツとする名門チームといえよう。戦後の教育行政とはいえ、大正末期から昭和10年代にかけて気を吐いた官立(現在は国立)3大学の戦後の衰退は惜しまれてならない。
ここまで前史は年代順に大学ラグビー部の創部を追ってきた。いよいよ「ビッグ・3」の一角と称される明治大学、そして5人TBラインで名を馳せた
立教大学の登場である。まずは明治大学の披露といこう。さきに慶應蹴球部の普及活動の項で明治大学へのアプローチが不発に終わったことに触れたが、そうした明治時代の古い痕跡は跡形もなく消え去った大正10年冬。明治ラグビー創部への胎動は、ひとりの予科生によって始まった。その若者の名は奈良・天理中学出身の能美一夫。「当時予科2年生だった能美一夫(昭和59年没)は、三田綱町グラウンドで初めてラグビーの練習風景を見かけた。慶応の学生たちが、広いグラウンドに楕円のボールを蹴り上げ、走りまわる奔放なこのスポーツに魅せられた」と明治大学ラグビー史は創部の動機を伝えている。
それからというもの、能美一夫の綱町通いがはじまるわけだが、もともと柔道、相撲、馬術に秀でた根っからのスポーツマン。ラグビーの虜となった能美一夫が柔道仲間の島崎軍二、大里弼二郎、鎌田久真男を誘ってラグビー部を結成、大正12年4月1日を創部の日としたのが歴史のはじまりである。ここで注目されるのは、創部にあたって慶應義塾ではなく、
早稲田に教えを請うていること。この点について、
日本ラグビー史は能美一夫の言葉を「普通ならば慶應にコーチを願うべき順序だろうが、その一番強い慶應を倒すことをさしあたって今後の目標としなければならぬので、おそらく同じ考えであるであろう
早稲田に習うほうが皆にも張り合いがあるだろうと思った」と紹介。これを「明治の反骨精神」と形容している。
明治ラグビーのチャレンジ精神は、慶應のセブンFWに対するエイトFWの採用など、形のうえでも具体的に現れている。もっとも、この考え方というか、発想の先輩格には
三高はじめ東京、京都の両帝大がある。
三高、
京大のOBでもある谷村啓介は「大正12年頃、
京大においても、慶應を破るには慶應のやり方を真似しては駄目であるから、新しい方法でやるべきだということに決まりFWのエイト・システムを採用し、大正13年の対
東大戦には両校ともエイトであった。このエイトで慶應とも試合し、
京大は一に押し、二に押し、三に押してFWの押しに重点を置いたのである。慶應のセブンのクイック・ヒール・アウトとは全く対照的に異なったものであった」と、草創の昔を振り返っている。
明治のエイトFWと時を同じくして東都の大学ラグビー界にデビューしたのがマスドリブルの雄、
立教大学ラグビー部。創始のタクトをふったのは付属の立教中学から進学した早川郁三郎となっているが、これには
三高から
京大時代に獨法(注)の倶楽部チームや天狗倶楽部などでラグビー経験を積んだ兄荘一郎の影響が大きい。もともと郁三郎はサッカーの選手だったというが、兄荘一郎の誘いで第1回早慶定期戦を観戦。このときを境に郁三郎はラグビーへの転向を決意したという。間接的ではあるが、ここにも京都ラグビーの影が見え隠れしていて、いまさらながら初期の
日本ラグビーに与えた京都パワーの影響の大きさ、凄さには驚きのほかない。
(注)法学部の専門科目で、ドイツ法学を専攻するグループ。
こうして早慶定期戦の実現は、東都の諸大学にラグビー部新設をうながす号砲となった。1924(大正13)年に
東京高等師範(現
筑波大学)、つづいて1925(大正14)年には法政大学はじめ中央大学、青山学院など、現在の対抗戦、あるいはリーグ戦グループで活躍するチームが名乗りでたが、
日本大学だけが1929(昭和4)年の創部と諸大学に比べてやや出遅れた。変わったところでは北の大地、北海道のラグビー創始校となった北海道帝国大学(以後
北大)。創部は1924(大正13)年というから明治、立教両大学に次ぐ古豪といえるが、それにしても
早稲田ラグビーの発足とともに起こった東都のラグビー旋風。そこにはマグマの爆発を思わせる強烈さがあった。