《メッカ神宮競技場と東都のラグビー》


 明治神宮外苑に国家の予算で神宮競技場が建設された。1924(大正13)年秋のことである。日本では大正時代になっても、公共の競技施設は皆無。慶應や三高、同志社などラグビーの先進校はそれぞれ自校の運動場、もっとひらたくいえば学校の校庭を試合会場とする「冬」の状態の中にあった。1924年といえば早慶ラグビーの有料試合が初めて行われた第3回定期戦の年度であり、また早慶につづいて早同、早帝の試合でも有料試合は行われたが、このときも試合会場は三田綱町の慶應グラウンド、早稲田の戸塚球場が使われている。
 しかし、仮にいまここで早、慶や帝大のラグビー関係者たちが、新装の神宮競技場での試合を望んだとして、その願いはかなえられただろうか。神宮競技大会のために国家が大金を投じて建設したばかりスタジアムである。内務省なり、外苑奉賛会関係者が目的の神宮大会開催前に外部団体の使用を許すはずもないが、このすばらしい本邦初のスタジアムを前に、ラグビー関係者たちの間で「優先的にラグビー会場へ」の夢が澎湃と沸き起こってきたのも事実のようだ。日本ラグビー史に彼らの熱い思いが綴られている。
 「有料試合を行える競技場としては戸塚の早大球場だけが、ただひとつそのための施設を備えていた。しかし、このグラウンドも元来が野球場施設であるため、ラグビーに使用するには競技のためにも、また観覧のためにもきわめて不自然な点が多く、観覧者の数も激増してきたことから、どこかにラグビー競技専用のグラウンドが欲しい希望が、協会中心に起こってきた。けれども、そういうグラウンドをラグビー関係者だけでつくるほどの気運はまだ熟していなかったし、幸いフィールドが芝生で、インゴールを除いては広さもおおかた適当した神宮競技場が利用し得たら、これに越したことはないのである」──と。
 神宮競技大会の初年度はまた関東協会が設立された年度とも重なる。協会としてもまだ神宮競技大会に対する評価というか、考え方は五里霧中といったところ。「関東、西部両地域協会は発足途上にあり、全国的な統括機関も持たないラグビー界ではあったため、とりあえず香山蕃を参与として送り込み、かんじんの競技のほうは関東、関西のOB対抗試合、関東学生選抜紅白試合の2試合を挙行してお茶を濁す」(日本ラグビー史)程度のおざなりな対応に終わっているが、大会2年目の翌1925(大正14)年度、そして大会3年目の1926(大15)年度に至って関東協会の神宮競技大会への対応は微妙な変化をみせている。
 これには中学、高専の各部で参加希望校が激増したこともあるだろう。「第2回は中等学校関東代表早稲田実業、関西代表同志社中学が顔を合わせ、同志社が26対0で勝ち、専門学校は慶應予科が一高を破り、関東西(関東対関西の意)のOB戦は第10回の定期戦を兼ねて行われたが11対0で関西が勝った、第3回になると、ラグビー界の態度もかなり積極的になって、大会的な気分に同化してきている」(原文のまま)とあり、さらにラグビー史は神宮競技場のラグビー専用化が夢から現実のものとなったことを記している。「神宮競技の開催期間はきわめて短時日であり、また冬期に屋外競技場を使用するスポーツはラグビー以外にはサッカーぐらいしかないため、サッカーに優先を策したラグビーが、土曜、日曜、祭日をまったく独占的に使用し、あたかも専用ラグビー場の観を呈した」──と。残念ながらこの記述には、ここに至る当事者たちの努力、交渉の経緯がはぶかれ、いきなり結論となっているが、それはともかく早慶定期戦の実現にはじまり、関東諸大学ラグビー部の勃興、そして関東協会設立と新装の神宮競技場の専用化──とつづいたラグビー界一連の動きは、もはや何ものをもってしても止めることのできない明日への大きな流れとなっていった。