《そのころ関西のラグビーでは…》


 早稲田ラグビーの発進が東都の起爆剤となったこと、その底流に京都人脈の大きな力があったことをこの前史の前半で綴ってきた。慶應義塾に興ったラグビーは京都で花開き、再び東都へと逆流の道をたどりはじめたというのが歴史の流れではあるが、ではそのころの京都を中心とする関西はどうだったのだろうか。まず、云えることは地域的には大阪、神戸など近隣府県への広がりであり、人的にはOB活動の活発化の2点である。
 結論から述べてみよう。なるほど東都にラグビーのうねりを起こしたのは京都人脈だったが、ラグビー定着後の関西に新たな波を創造したのは、逆に卒業とともに関西へやってきた慶應蹴球部OB集団だった。こうした東西の先達たちがラグビー活動の場を互いに交換しあうことで地域の輪を広げ、新しい組織を掘り起こしていく。関西に限っていえば、古都京都に始まったラグビー活動は、OB組織の結集とともに隣接する阪神地区へとその輪が広がって、時代は新しいステージへと突入していったともいえるだろう。
 その推進役となったのが、関西ラグビー倶楽部(別名ホワイト・クラブ)である。関東にAJRA設立のきっかけをつくった彼ら関西在住OBたちの親睦団体でもあるが、その中心となったのが慶應蹴球部の1913(大正2)年度主将を務めた杉本貞一。卒業後は出身地の兵庫県神戸市郊外に戻っていたが、1918(大正7)年に関西へ赴任してきた慶應蹴球部の後輩や三高、同志社のOBら同志を募って発会の運びとなった。第1回の発起人会は神戸郊外須磨の浦の脇肇(慶應蹴球部1917年度主将)宅で、また倶楽部の事務所は大阪・淀屋橋の水野運動具店(現MIZUNO)ビル7階、そしてメンバーの在住地は神戸、大阪、京都に散在と、組織の行動地域が初期の京都中心から京阪神3都へと拡大すると同時に、ラグビー活動そのものも、中学、高専チームの育成、指導と、対象の内容も多様化していった。
 関西ラグビー倶楽部の出現は、それまで大学ラグビーがすべてであった在り方を根本的に変えてしまうほどのインパクトがあった。もちろん設立の趣旨はOBの親睦にあったとしても、倶楽部の会員はその道の先達者であり、学び舎の先輩たちである。後輩たち、あるいは新しいチームへの影響力には絶大なものがあった。大学、高校、専門学校では1919(大正8)年創部の大阪高商はじめ、大阪高校、関西大学、関西学院、神戸高商、大阪外語、甲南高校、三重高等農林など。また中学では1912(明治45)年創設の京都一中はじめ、同志社中学、京都一商など京都グループを追って、大阪に天王寺中学、北野中学、神戸に神戸一中、二中、奈良に天理中学、和歌山に和歌山中学、三重に津中学など、各府県の公立中学で花が開き、彼らの交流も府県の枠を越えて活発化する関西独特の気運の確立に成功している。
 京都一中、同志社中学、京都一商など明治の末期に誕生した中学は別格として、1920(大正10)年代に開花したこれら阪神の中学は、創部とともに府県内のチームや他府県の中学と定期戦を結んできた。大阪の中学定期戦などは、その格好の例といえるだろう。大阪府でラグビー部の創設が一番早かった天王寺中学と、半年遅れてスタートした北野中学との定期戦がそれ。1924(大正13)年1月19日の第1回定期戦ではやはりラグビーで先輩格の天王寺中学が14−3と勝っている。
 上級学校への進学率はもとより、ラグビーの定期戦もその象徴のひとつ。戦前の定期戦を知る古老は「本家の北野中学ではラグビーを『校技』と呼び、応援歌を作って全校生徒が花園ラグビー場で母校の応援に熱狂したものだ」と昔を懐かしむ。浪速のリトル早慶戦とはやされ、大阪名物にまで育った定期戦ではあるが、西部協会も理事長杉本貞一の名で優勝盾を贈って定期戦に花を添えている。特定の中学定期戦に協会が優勝カップなり、優勝盾を贈るなど、いまでは考えられないことではあるが、当時と今では事情が違う。「京阪神どこでも、だれでもわざわざ出向いて指導し、力を貸した」とする関西ラグビー倶楽部の信条は西部協会にも受け継がれていたということである。
 兵庫県芦屋市の市立図書館に「田尾文庫」と称するコーナーがある。著名なスポーツ史家で、スポーツの研究家でもあった田尾栄一が亡くなったあと、膨大な蔵書がご家族から芦屋市に寄贈されたものだが、その中の一冊に、田尾栄一編集の「関西ラグビー倶楽部廿年史」という古書が保管されていた。倶楽部の創設者、杉本貞一がその廿年史に認(したた)めている原稿には、倶楽部名を象徴する純白のジャージーについて「我等ラガーは常に純真であることを意味し、ガイコツのマークは無欲たんたんで一切は『空』だ、私等は真直にラグビーに精進すると言う理由から出ている。で一名を『オールホワイト』と称し…」と、その由来を語っている。さらに廿年史を繰っていくと記録の収録があった。歴史の探求とともに田尾栄一が最も得意とした分野でもある。それによると、20年にわたって対戦してきた試合の数は145試合。1926(大正15)年には関西の王者、三高京大を連破するなど、輝かしい記録が記載されてはいたが、記録もさることながら、この倶楽部のすばらしいところは勝敗へのこだわりがなかったこと。とにかく京阪神のチームでオールホワイトのお世話にならなかったチームは皆無というのが、OBクラブの誇りといえよう。廿年史の記述から関西ラグビー倶楽部活動の一面を披露した。