そもそも西に関西ラグビー倶楽部、東にAJRCと称するOB組織ができた最も単純な理由は「東西対抗」の実施にあった。AJRAの世話人橋本寿三郎は慶應六十年史に「発祥は1920(大正9)年11月3日である。三田綱町のグラウンドで関西ラグビー倶楽部との第1回戦を挙行した(関東3−関西6)この試合後三田の東洋軒で懇親会を開催し、運動記者なども招待して発会を祝した。会長は故田中銀之助氏で副会長故松岡正男氏、故櫛山次郎氏委員として故真島国松、故増田太郎、筆者などが居った。その発会の宣言書を見ると『ラグビーを愛する紳士の集まり』という競技中心の集まり」と記しているが、発会の日時、場所はともかく、関西代表との対戦日は日本ラグビー史が伝える「同年11月7日」と食い違っている。常識的には11月3日の明治節に発会。4日後の7日に第1回定期戦というのが一般的なスケジュールではないだろうか。
それはともかく、関東、西部両協会設立前後の事情に詳しい橋本寿三郎は、東西OB対抗戦について「大正七、八年の慶應大学にはOBの集まりが非常に多くなり、一チームを形成する事も不可能でない域に達しておった。このOBは寧ろ関西に多く、是に三高、同志社の先輩も関西に多いのが原因して関西は一歩先んじてOBチームを形成した。関東方でも慶應の大会に出席したOBがチーム結成の可能を感じて居った」と語り、年度ごとに増えていったOBの存在をその背景にあげている。戦後に設けられた三地域対抗はラグビー創始国を中心とする5カ国対抗(当時)の日本版といわれていた。
初期の関東代表vs.関西代表対抗戦成績