《関東に地域協会が設立される》


 日本ラグビーの前史を締めくくる主題は、やはり東都に関東、関西に西部(後に関西と改称)両地域協会が設立されたことだろう。日本のラグビー界に残るAJRAの1922(大正11)年10月9日付け記録には「目下関東関西でラグビーを行うチーム十八余を算し、ルールの解釈に多少の相違を見…云々」と記されているが、東西にラグビーの統括機関が誕生した2年後の1924(大正14)年ごろにはチーム数も飛躍的に増加している。日本ラグビー史の記述はこうだ。
 「チームの数はやがて18どころではなく10数倍にもなり、2チーム間の定期戦以外にも各種のラグビー行事が催されるようになった。この趨勢に呼応して、どうしてもかねての懸案である権威のある統御機関設置の必要は切実になってきた。幸いそういう要望に添うような組織化の母体が都合よく順調に発展しつつあった。すなわち任意につくられていたOBの倶楽部組織として、東京のAJRAと、大阪の関西ラグビー倶楽部がそれであるが、これらのふたつの倶楽部がそれぞれ、関東ラグビー蹴球協会と西部ラグビー蹴球協会とに、発展的に改組されたのである」──と。
 AJRAが関東協会として確立したのは1924(大正13)年6月のこと。初代会長にはAJRAの会長を務めていた田中銀之助を戴き、慶應OBから橋本寿三郎、増田鉱太郎、永井信二郎、東大OBから香山蕃、久富達夫、井場直人、早稲田OBから朝桐尉一らが理事に就任。橋本寿三郎が推されて初代理事長に就任したが、新協会で特筆されるのは、学生委員会を設けて協会運営に発言の場を与えたこと。委員には山口六助、宮地秀雄(以上慶應)、吉田光一、吉岡恒治(以上早稲田)、久富達夫(兼任)、石田啓次郎(以上東大)、藤野嘉蔵(東商大)、能美一夫、大槻文雄(以上明治)が選ばれ、みずからの識見に基づいた意見を臆することなく存分に吐露して貢献したという。
写真・図表
関東協会初代会長 田中銀之助

 また規約によれば、理事会、委員会の組織単位を甲種会員、協会運営に参画していない大学、高専、中学、実業団の登録チームを乙種会員とし、それぞれ甲種は20円、乙種は5円の年間会費納入を義務付け、協会側は①会報(競技規則記載)の配布。②レフリーの派遣。③競技の主催、監督──などを主たる業務とした。また関東協会初の主催試合となった第3回早慶ラグビーは、日本で初めての有料試合でもあったが、当然のことながら入場料について協会側は①実費の計上。②残額の保管。③配分率の決定。④交付の方法…など、極めて厳格な規約の制定で対処している。
関東ラグビー蹴球協会決算報告書
貸借対照表 昭和8年4月30日

収支決算書 昭和8年4月30日

昭和7年度日本ラグビー蹴球協会決算報告書
貸借対照表 昭和8年4月30日

収支決算書 昭和8年4月30日

大正13年度会計報告書 関東ラグビー蹴球協会

入場料決算表 関東ラグビー蹴球協会