《1年遅れて西部協会も発進》


 西部協会の設立は1925(大正14)年9月。正式な統括機関の創設では関東協会に先を譲った関西ではあったが、その母体となった関西ラグビー倶楽部の活動は、すでに協会的機能の発揮そのものだった。具体的には「大正13(1924)年秋に大脇、佐伯、谷村、竹上、杉本、下村、大市の7名を『公認審判者』として推薦。また大正14(1925)年1月には、関学、関大、大阪高商、神戸高商、大阪高校、大阪外語の6校を糾合して『阪神専門学校ラグビー聯盟』を結成せしめるなど」(日本ラグビー史)がその最たるもの。
 ただ協会発足にあたっては関東協会の趣旨に則りはしたものの、組織の面では西部の独自色をだしている。例えば①大学・高専を第1部、中学を第2部とした点。②役員構成の構成母体を評議員会とし、第1部2名、第2部1名とした点。③理事は評議員会で公選とした点──などがその相違点。そして初代副会長(会長は空席)には関西ラグビー倶楽部の創設発起人代表ともいうべき杉本貞一が推薦されている。
 また「西部協会」とした名称については、統括する地域が関西のほか、九州、朝鮮半島を含んでいたことから、関西では不適当として「西部」という名称が採用された。西部協会の名称が関西協会となったのは、新たに九州協会が成立した戦後のこと。その結果、日本のラグビー界は3地域協会による現体制が確立したわけである。なお、関西ラグビー倶楽部は、その後も本来のOB親睦団体として再スタート。戦後は主としてKYRC(関西ヤングマン・ラグビー・クラブ)と称して関東のエーコン・クラブと定期戦を行うなど、戦後の日本ラグビー復活に貢献した。