《初代会長問題と役員人事》


 さきに日本協会の設立時期について諸説が交錯していたことを述べたが、さらに初代会長問題についても年史という立場から日本協会の統一見解を再録しておかなければならない。日本協会理事会は2003(平成15)年6月に「①ユニオン創設は1926(大正15)年11月30日。②初代会長は高木喜寛」とする日比野弘(当時日本協会副会長)の調介結果を全会一致で承認。ただちに機関誌「JUL.2003」号で公示した。これによって長年の懸案となっていた日本協会の基幹問題ともいうべき「日本ラグビー史」と「日本ラグビー五十年史」(ともに日本協会編)の食い違いは解消したわけだが、①会長問題も含めた創設時の日本協会役員人事が何時、何処で決まったのか。②第1回理事会開催時に空席となっていた初代会長に高木喜寛副会長が何時昇格したのか-の2点については、未解明のままというのが現状である。ただ「80年史」執筆の段階では断定できなかったが、手がかりとしてはさきに転載した「関東協会の歴史を追う」(関東協会広報委員会)の記述、あるいは日本ラグビー史掲載の日本協会主催第1回東西対抗試合前の写真などがあげられる。
写真・図表
日本協会初代会長 高木喜寬

 例えば創設時の日本協会役員人事が決まったのは、年度でいえば1927(昭和2)年度、暦年に振り替えれば翌1928(昭和3)年の2月11日と推定される。その根拠となるのは「関東協会の歴史を追う」が伝える1928(昭和3)年1月20日に東京日々新聞社で開かれた関東協会理事会での3項目にわたる決定事項。《①「此機會ニ日本ラグビー蹴球協会ノ組織ヲ確定シテ本部ヲ東京ニ置ク様努力スルコト》《②「1月27日:(ロ)日本ラグビー蹴球協会役員のことは関西で協議すること」》《③「2月11日:1.日本ラグビー蹴球協会に関する件打ち合わせ」》。
 まず①の決定事項はこの時点で、いまだに日本協会の組織と本部がなかったことを明確に指摘するものであるが、日本協会の人事を関東協会が単独で決めることは出来ない。ところが、東西の首脳が顔をそろえるまたとない機会とでもいうべき秩父宮ご臨席の第1回東西対抗試合(日本協会主催)が2月12日に甲子園で開催される。関東協会の「関西で協議する」という決定は、この機会を指しているわけである。日本協会の成立を宣言しながら、組織確立の遅れ、会長問題を含めた役員人事(下記参照)の未定など懸案の処理を解決する場としてはこの2月12日の前後をおいてほかにない。確たる史料の存在は明らかになっていないが、上記の点からみて「2月11日の東西合同会議こそ決定の日」とする推測はじゅうぶんに成り立つといえるだろう。
 また、会長職を空席とし、日本協会の初代会長就任を固辞した田中銀之助を名誉会長、田中銀之助が会長適任者として推薦する高木喜寬を副会長とした一種の変則人事については、その背景を川目保美(関東、日本両協会の初代事務長)が率直な記述で後世に残してくれている。他にこれという証言が見当たらないいまとなっては貴重な史料といえるが、残念なのは高木喜寬が副会長から初代会長に昇格した正確な日時を記す文書なり、記述のないことである。川目保美の遺稿でおぼろげながら役員人事決定の舞台裏を偲んでみよう。
 「いつしか秩父宮賜杯の件が田中銀之助の耳にはいると『いままでと異なり無位無官の野人(田中銀之助)では殿下を迎接にも事欠くから会長(日本協会初代会長の意)に適当な人物を選定するよう』と橋本寿三郎、増田鉱太郎両氏を通じて田辺九万三さんに申し入れがあった。九万さんは香山氏ら役員(関東協会)に諮ったが、香山氏は伯爵川村某氏を推薦。一般の役員が母校のレギュラー選手であった経歴を保持したことを条件とする建前から、人選は慎重を要することとなり、今一度田中会長の推薦を請うことになった。田中会長は有爵者で貴族院議員、慈恵会医大学長、東京病院長、英国のキングスカレッジやセント・トーマス病院でラグビー選手の経歴を持つ高木喜寬を推挙。九万さんは何を気兼ねしたのか、高木男爵を副会長に推挙、田中会長は名誉会長となり、会長空席となって一応ケリ」(日本協会機関誌から)
 遺稿の文中後半に「田中会長」という表現が3度出てくるが、この場合の「会長」は関東協会の会長を指している。また、橋本寿三郎に次いで名前が出てくる増田鉱太郎はAJRA創設メンバーのひとりで、慶應義塾蹴球部のOB。遺稿によると、日本協会初代会長に就任要請されていた田中銀之助が、橋本、増田を通して辞退の意向を田辺九万三に伝えているわけだが、日本協会初代会長選出問題の中心である関東協会第3代理事長に田辺九万三が決まったのは1927(昭和2)年8月8日開催の理事会(丸ノ内中央亭)でのこと。ということは日本協会会長問題が本格的に動き出したのは、服喪が明けて間もなくの1927(昭和2)年の夏以降。現代的感覚からいえば関東のラグビー界が田辺九万三主導の時代を迎えた同年度シーズン開幕直前か、開幕後と推測される。田中銀之助が関東協会会長職にあった当時の初代理事長橋本寿三郎、短期間に終わった2代目の田辺専一理事長時代は御諒闇など、時期的にも日本協会の役員人事などが議題とは成り得なかったといえるようだ。
 なお、史実としては日本ラグビー史が高木喜寬の日本協会初代会長就任について「幾ばくもなく高木は正会長に推され、また関東協会の会長の地位も、田中辞任のあとを継いで…」と記しているだけ。また、この項の冒頭で紹介した日比野報告書は結論のところで「初代会長は昭和3年就任の高木喜寬である」と、副会長から空席の初代会長への昇格を昭和3(1928)年と断じているが、詳細な日付についての記述はない。
写真・図表
日本協会初代理事長 田辺九万三

日本協会創設時の役員名簿】
名誉会長 田中銀之助
会長   空席
副会長  高木喜寬
理事長  田辺九万三
     杉本貞
書記長  橋本寿三郎
会計役  香山蕃
     渡辺民三郎
     久富達夫
(注1)理事の杉本貞一が肩書きのないまま理事長職と同格の位置にあるのは、関東、西部両協会のバランスを考慮して並記したものと考えられる。
(注2)西部協会は1925(大正14)年9月の創設いらい会長職を置かず、理事長が最高責任者だった。その後1929(昭和4)年に初代理事長杉本貞一が副会長、第2代理事長に井上二郎が就任。そのまま戦後の1947(昭和22)年に初めて会長制を採用して井上二郎会長、奥村竹之助理事長の体制となった。