《私とラグビー》


日本ラグビー・フットボール協会総裁
秩父宮雍仁
 一八二三年英国の一パブリック・スクールの生徒 William Webb Ellis がフツトボール競技中、無意識の中に、規則のすばらしい無視をしたことによつて種を蒔かれたラグビー。
 我国に輸入せられて五十余年になるラグビー。
 一度の見物で僕を魅了したラグビーだが十指に余る色々なスポーツに手を出しながら遂にプレイする機會のなかつたラグビー。
 そして今は思いがけなくも特別の関係の出来たラグビー。
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 僕がラグビーを見初めた大正十二、三年頃のラグビー風景は未だに忘れられない。三田や戸塚の霜どけのひどいグラウンドで泥にまみれて倍位の大きさになり、パスもキツクも出来ないボールを争う泥だるまのストラグル、之を見る人々と云えば真に數えられる位僅かなもの、僕の爲には椅子が用意されていたが、スタンドなどなかつたから皆サイドラインに沿つて立ち見、そしてボールの動きにつれて右に左に動くのであつた。それが昭和になつて逐次盛んになり万を以て數える観衆を集めるに到つたが、それでも戦前は未だラグビー専用のグラウンドは大阪の花園だけであつた。ところが戦後あの混濁の中に東京、名古屋に専用グラウンドが生れ競技は戦前にもまして全国的に益々普及に向いつつある。全く隔世の感に打たれると云ふ外はない。
 ラグビーは世界のスポーツ国、英国に生れ、英国人によつて育成されたものだから、スポーツ中のサラブレツドであると云えよう。そのよき傳統は日本に渡来しても正しく継承されていて、我がラグビー界は我がスポーツ界に於て特色ある存在である。
 此處でラグビー精神や、其の特色効能に就いて一言触れるべきかも知れないが、一度もラグビーのボールを蹴ったこともない人が尤もらしいことを書きたててみても、ピンとは来ないし、反つて贔屓のひき倒しとなるのが落だらう。之等のことは多士斎々たるラグビー界の適任の方々にお任せすることにする。
 僕はラグビーフアンとして、また協會に關系する者の一人として、今日の隆盛を心から喜ぶものだが、人間社會では兎角逆境の時より、順境のときに問題が起り易い。今回ラグビー協會が新に機關雑誌を發行し、立派な傳統を正しく推進しつつ、ラグビー界の團結と競技の普及とに役立てようと云ふことは真に機宜に適した結構な企であつて僕は本誌が遺憾なく、此使命を果することによりラグビー界が今後とも躍進を續けることに大きな期待をかけるものである。(日本協会の機関誌「Rugby Football」復刊第1号から)
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 秩父宮さまご自身で綴られたエッセー(上記)にも「僕がラグビーを見初めた大正12、3年頃…」とあるように、宮さまとラグビーの出会いは1923(大正12)年5月に大阪・築港グラウンドで開かれた第6回極東オリンピックである。この大会でラグビーはオープン競技としての参加ではあったが、思えば日本ラグビーが史上初めて国際競技会にデビューした記念の大会、そして秩父宮さまとラグビーを結びつけたこの大会参加を、別の視点でとらえるとき、日本ラグビーの未来を約束づける出発点だったとも位置付けられるだろう。日本ラグビー史は「秩父宮さまと日本ラグビー」と題して、写真18枚によるグラビア5ページ、「秩父宮さまの想い出」とのタイトルで5ページにわたって、ラグビーに傾倒されていった戦前の宮さま、戦後は総裁宮として日本ラグビー復興に多大のご尽力をいただいた数々の事実を列挙して大きな存在だった秩父宮さまを偲んでいる。ここにその要旨を転載した。
第6回極東オリンピック(大阪)の優勝メダルと入場券
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 「殿下は、それまでにも、いろいろの近代スポーツにご興味をお持ちになっているが、殿下ご自身のおことばにもあるとおり、この時すっかりラグビーがお気に召し、(大正)12~13年度のシーズンには、三田綱町で行われた慶應対東大の試合をご覧になったのを最初に、東大対商大、早大同大東大明大などご都合のゆるす限り数々の試合に台臨せられ、ときにはご覧になるようなスケジュルがないときには、ただ殿下にお見せするためにスケジュル外の特別試合を仕組んでまでご覧に入れた。殿下は、このころ早くも、俗にいうラグビー・マニアにおなりになったのであった。戦後の民主化時代とちがって、皇室の尊厳が形式の上で極端に物々しく警備せられた時代に、御直宮としての秩父宮殿下のお立場は容易に近ずき難い雲の上にあったのであるが、殿下のご性格がひときわスポーツマン・ライクで淡白であらせられたことから、いとお気軽にお出ましになり選手の仇名まであげてご談笑になるさまは、いかにもお楽しげであり、ラガーメンもまた無上の親しみを感じた。(中略)日本ラグビーの発達を予期されて、前例を破って秩父宮盃をご下賜になって、その機會に日本ラグビー協会は誕生した。また、グラウンド難のラグビー界の苦境にご同情いただいて、専門ラグビー場の建設を促進されるなど、とうてい常人の企て及ばざるご功績を日本ラグビー界にお残しになった。(中略)
 ご成婚後最初の妃殿下ご同伴の台覧であった花園ラグビー場の開場式以来、妃殿下もまた殿下に劣らぬラグビー愛好者になられた。妃殿下は、殿下のご逝去ののちも、故殿下のご遺志を体され、外国チームの来日の際には、試合場や歓迎会場へご臨席をいただくことが、ほとんど毎度のことで、歓送会場で妃殿下の御手から直々に記念品をいただく場合など、あのやんちゃ坊主揃いの外国選手が、コチコチに緊張して拝受する場面は、ほほえましい日本ラグビー独特の雰囲気をかもし出すのであった。
 殿下が最後にラグビーをご覧になったのは、オックスフォード大学来日第1戦の昭和27(1952)年9月14日の対全慶應戦であった。この日も殿下はグラウンドに降り立たせられ、ブラード主将以下全選手に握手を賜ったが、殿下も久々のご観戦でたいへんご満足のようであった。(中略)
 昭和38(1963)年9月24日、日本ラグビー協会35周年記念式典に際し、日本ラグビー物故者慰霊祭を行い、その名もゆかしい秩父宮ラグビー場で、故秩父宮殿下も合祀させていただいたのであるが、ご台臨の妃殿下は祭壇にご親拝せられ、故殿下の霊をお慰めになるとともに、香山(蕃)会長を通じて、長かった殿下と日本ラグビーとの連(つな)がりに憶(おも)いをこめての優渥(ゆうあく)なるおことばを賜った。
 殿下のご生前の日本ラグビーへの賜ったお志は、今も慈しみ深く日本ラグビーをご庇護賜ると同時に、殿下もまたご満足のほほえみをたたえておられることだろうと拝察する。
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秩父宮さま(中央)を先導する西部・杉本(左)、関東・田辺(右)両協会理事長。

 日本ラグビー史を借りて日本ラグビーをこよなく愛され、発展に大きな足跡を刻まれた秩父宮さまのご遺徳を再録したわけだが、日本協会80年史としては日本協会設立を巡る秩父宮賜杯がはたした役割について記録しておきたい。
 まず、秩父宮賜杯の下賜について、宮家からの内意が関東協会理事会で報告されたのは1928(昭和3)年1月20日のこと。当時の協会事務長、川目保美は「香山氏が前田(利男・伯爵)事務官を通して懇請していた秩父宮賜杯のことが聴許になったという快報を得て、着々準備中の東西対抗競技開催が何としても実施しなくてはならぬことになり、日取りの選定その他の付帯用務が増大してきた。九万さん(田辺九万三)は外苑管理署に赴き、日取りを決めて明治神宮外苑で花ばなしく開幕したかったが、東京朝日が後援するサッカー試合のため何としても交渉に応じてくれないので九万さんの苦悩は容易ではなかった」と、理事会報告後のあわただしい協会の動きを書き残している。
 この川目原稿は、秩父宮賜杯下賜の内意が、それまで単なる机上のプランに過ぎなかった日本協会主催の東西対抗ラグビーを現実のものとした点に触れているが、前述した「関東協会の歴史を追う」(同協会広報委員会編)の記事は、さらに一歩踏み込んだそれまでカンバンだけの日本協会から、名実ともに最高の統括機関たるべき組織化への行動がはじまったことを報じている。日本ラグビーにとっても、また関東、西部両協会の関係者たちにとっても、秩父宮賜杯の下賜という事実は、日本協会の初代会長問題も含む協会設立の現実化に強烈な衝撃となった。それほど秩父宮さまが日本ラグビー界にはたされた功績は何にもたとえようのないほど偉大なものであり、日本という国にラグビーが存在するかぎり後世に語り継がれていかなければならない大きな出来事だったと評価すべきだろう。日本ラグビー協会設立の歴史を繙(ひもと)くとき、改めて賜杯の重みを感じる。
 秩父宮賜杯の下賜内定が日本協会の組織づくりを緊急課題としたことに触れてきたが、内部的には全国的なルールの統一という競技運営上の重要問題を抱えていた。とくにこのテーマが表面化してきたのは、三高はじめ東大京大など帝大系のチームがFWのエイトシステムを採用しだしてから。これらエイトFW派によれば「慶應セブンと同じラグビーをしていたのでは、いつまでたっても慶應を超えることはできない」という至極もっともな発想が本場のルール研究へと走らせた。
 すでに1921(大正10)年頃、三高では奥村竹之助、馬場三郎、巌栄一らがイングランドから「RUGBY FOOTBALL UP TO DATE」なる教本を取り寄せ、ラグビー創始国のルール研究と取り組んでいたが、ルールの統一を迫られた日本協会としては初代理事長田辺九万三が1928(昭和3)年に競技規則制定委員会を設置。委員長に橋本寿三郎、委員に香山蕃、奥村竹之助、巌栄一、山口六助のシフトでスタートしているが、作業分担としては学生時代から本場のルール研究に関心の強かった奥村、巌、山口ら少壮気鋭の若手組がイングランド・ラグビー・ユニオン制作の競技規則原本を翻訳し、これを橋本、香山のベテラン級がまとめて、懸案の日本協会の統一ルールが初めて完成したということだろう。
 後に奥村竹之助は往時を振り返って田辺九万三追懐録に次のような手記を書き残している。「今日、毎年発行の競技規則は内容は毎年異なるが体裁その他はこの時即ち昭和3年協会発生(日本協会の組織が確立した時期を指す)当時のものを踏襲して居るのであつて最初は数十部を特に革の表紙に印刷し番号を附して各大学幹部並に協会役員等の特別席入場証として、今のバッジの代わりの様に使っていたと思う。」
 この項の最後となったが、過去に前例のない秩父宮賜杯をいただいた日本協会主催第1回東西対抗ラグビーは、関東、西部両地域協会関係者の努力で1928(昭和3)年2月12日、秩父宮さまを甲子園球場特設会場にお迎えしてとどこおりなく終わった。スコアは9−6で関東が勝ち、グラウンドに降りられた宮さまは、まず両チームの選手に「イギリスのインターナショナルにならって今度ラグビーの東西対抗試合が行われることになったのは意義のあることで、しかも今日の試合が終始ラグビー精神により堂々と戦われたのは愉快である。諸君が今後ラグビーの競技によりスポーツ界の為に益ます尽くすことは我が国民の元気のため、また一つには社会人としての修養のため甚だ必要なことと思う」と述べられたあと、みずから賜杯を勝利した関東の滝川末三主将に授与された。なお、表彰式に臨まれる宮さまの写真が日本ラグビー史に掲載されているが、先導するのは関東、西部両協会の田辺九万三、杉本貞一両理事長。この時点での日本協会会長空席の事実を思わせる写真ではある。