常勝慶應ラグビーが史上初めて日本チームに敗れた。恒例の1927(昭和2)年11月23日、神宮球場で行われた第6回早慶定期戦で早稲田が8−6の小差ながら「打倒慶應」の一番手という名誉を手中に収めた。慶應蹴球部百年史によると、「京都の第三高等学校(旧制)と対戦して以来、日本チームを相手に続いた連勝記録は16年でピリオドが打たれた」とある。「優勝劣敗」、「栄枯盛衰」…などなど。勝負の世界にまつわる無常の言葉には事欠かないが、勝者、敗者の心情に思いを致しながらも、ここでまず指摘しなければならないのは、王者の牙城が崩れた瞬間に日本ラグビーが新しい舞台を迎えたということである。この1927(昭和2)年という年度は日本協会が実質的な実働にはいった記念すべき年度でもあるが、その年に起こった大学ラグビー界の大異変は、第1期黄金時代到来の予兆といっても過言ではない。
日本ラグビー史もその点について「第3編 隆盛時代」の冒頭の項、すなわち「慶應初めて敗る・京大制覇」で「昭和2〜3年度こそ、日本ラグビーの勃興期のピークとなるとともに、息もつかずにつづいた戦前の全盛期の序幕ともなった」と表現。そして ①7〜9月早大の豪州遠征。②11月23日、29年不敗の慶應、早大に敗る。③3年1月7日、京大、早大を破って全国制覇なる──の3大トピックスを列挙することで新時代に突入したことを具体的に説明している。早稲田の豪州遠征については、すでに前項でその要旨を紹介した。京大の全国制覇については後述するとして、ここでは歴史的な試合となった主題にそって勝者、敗者それぞれの背景を考えてみた。
時事新報は翌24日付の紙面で、勝者について「早大は戦前豪州での収穫によって、優秀なプレーを見せ、試合をオープンに導く等、世評に喧伝されたが、此試合を見ると其の豪語は裏切られ、フォワードの得た球をハーフが伝えT・Bのパスに依つてトライせんとする所格別目新しいものもなく、従来のような戦法を以って終始したに過ぎなかった」と予想外の厳しい論評。同じように早稲田六十年史も「早稲田は勝敗にこだわり、新たに仕込んだ展開を忘れ、試合内容は凡戦に終わった」と反省の言葉で勝利の報告を締め括っている。この二つの表現に共通するのは世間の耳目を奪った「豪州遠征」の成果なり、収穫の無かったことへの落胆、失望ではあるが、ジャーナリズムと早稲田ラグビーの当事者では表現こそ相似はしていても、試合運びの拙劣さに対する受け止め方には大きな違いがあった。報道記事はただ試合の現象だけを活字化しただけの表面的なものに過ぎないが、当事者早稲田のラグビー史がいう「反省」の2文字には、勝利の裏に潜む深刻な技術問題、あるいはチームの構造に関わる危惧を示唆していたわけである。
不運なことに早稲田関係者たちの憂慮はシーズン後半になって的中するが、ここではまず日本ラグビー史の執筆者、本領信次郎が母校早稲田のラグビー六十年史とはちがったタッチで、その歴史的瞬間を感動とともに綴った文章に注目したい。本領信次郎はいう。「満員の観衆は早大フアンでさえも勝利の歓声をあげることを忘れて、ただ茫然と深いためいきをついた。運命の手によって、王者がその王座から降ろされるとき、人間の口から漏れる勝利の歌声よりも、木枯らしに散る外苑の樹々の葉音が奏でる無心の哀調こそ、その伴奏にふさわしかった。だれもが黙々と過ぎにし29年の日本ラグビーの歴史の足跡をもういちど踏みしめながら、来るべきものがついに来たのだと、一種の宿命観のようなものにうたれつつ、三々伍々、家路についたのであった。」と─。
本領信次郎といえば、ただ「慶應に勝つ」という一事のために、あの苦難の豪州大遠征を主将として企画し、実現した男である。勝利の瞬間を語る一語一語は、本来なら栄光のメンバーに名を連ねていたであろう本領信次郎ならではの言葉であり、胸中に去来した感慨をありのままにぶつけた文字だったともいえるだろう。しかし早稲田ラグビー六十年史の記述には反省の言葉はあっても、勝利の喜びを伝える表現がない。年史が世に出たのは勝利から半世紀後の1979(昭和54)年というから、時の経過が当時の感動を風化させてしまったとの見方もできなくはないが、さらに一歩踏み込んで思考を巡らせるとき、そこに浮かび上がってくるのは、早慶戦を戦った時点で当時の首脳陣にはその後の東大、京大戦での連敗が透けて見えていたということである。豪州遠征で学んだはずの展開ラグビーだったが、東大、京大のエイトFWには通じなかった。また帰国直後に本領信次郎の主将辞任を容認しながら再びメンバーに起用せざるを得なかった不安定なチーム事情…。早稲田六十年史としては、この年度を総括したとき栄光もさることながら、やはり明日につながる反省点に、より重点をおかざるを得なかったのだろう。そうはいっても、日本ラグビーの歴史という観点からいえば、やはり早稲田の勝利は後世に残る偉業であり、不滅の勝利にかわりはない。
その事実を象徴するのが敗者の慶應である。慶應蹴球部六十年史は早稲田のそれとは対照的な手記を、歴史の記録として後世に伝えている。紹介しよう。まず慶應のエースであり、キーマンのひとりといわれた名手萩原丈夫(後に前川丈夫)「思い出の記」から。
「初めての敗戦だ。遂に不敗の歴史を汚してしまったのだ。敗戦の口惜しさより先輩に対して申し訳けないという気持ちが先にたって涙が止めどもなく出るのをどうすることも出来なかった。控室に引揚げても先輩も部員も誰一人声を出す者もいなかった。永いラグビー生活のうちでもこの敗戦ほど忘れ得ぬ思い出はない」
萩原丈夫の述懐は試合前のチーム状況、試合の経過、そして敗因などにも触れてはいるが、読む者の心に刺さってくるのは「歴史を汚してしまった」という一途な気持ちを吐露した部分である。本領信次郎は「王者が王座から降ろされるとき」を運命といい、「来るべきものがついに来た」ことを「一種の宿命観」と結論したが、その意味から萩原丈夫の心情を推し量れば、ラグビー創始校だけにある宿命との戦いに敗れたともいえ、また歴史の重みに散ったともいえるだろう。
確かに「不敗の歴史」を背負って戦いながら、その伝統を守りきれなかった選手、萩原丈夫の心情は察するに余りあるが、慶應蹴球部六十年史には早慶戦を前に不安感の漂う蹴球部の模様がつぶさに記されている。筆者は1933(昭和8)年卒業の伊藤次郎。さきに早稲田が早慶戦に勝利しながらシーズンの後半戦に危機感を抱いたことにふれたが、同じように伊藤原稿には、不敗の王者が倒れるときの背景が浮き彫りされていて、興味ある記述となっている。
「昭和二年度の劈頭の対抗戦たる立教との一戦は四十四対〇をもってこれを一蹴したものの、対明大戦においては思わぬ苦戦となり、漸く三対三の引分に終つた。この日、もし明治の中村ウイングのハンブルがなければ、或いは一敗地にまみれることとなつたかとも思われる様な実に危げなゲーム振りで、関係者一同冷汗をかいたものであつた。
このためか対早大戦を前にして先輩の心痛この上もなく、選手の激励会は幾度となく開かれ、その都度先輩の口から塾の敗北を危惧した言葉が迸ばしり、選手の中には果たして早稲田に勝ち得るかと自信を失うものも現れる始末で、先輩の心痛が却て勝てるゲームをも失うのではないかと疑われる程であつた。
(中略)
昭和二年十一月二十三日という日は、我々蹴球部関係者にとつては忘れることのできない日として永久に残されることとなつた。
それにしても先輩の危惧していた敗北という不吉の予測が現実となつて現われたことは、かえすがえすも残念なことであつた。」(慶應蹴球部六十年史から)
慶應蹴球部六十年史の伊藤原稿を読むかぎり、王者慶應は敗れるべくして敗れたといえるだろう。第6回早慶定期戦は日本のラグビー史に新たな時代の到来を告げる号砲となったばかりか、ビッグゲームに臨む関係者への在り方という点で大きな教訓を残してくれたともいえる。
第6回早慶対抗(1927年11月23日:神宮球場)