《再燃した京大発の入場料問題》


 ラグビーと入場料の問題はさきに前史・早慶定期戦─「ラグビー界に衝撃の入場料徴収」の項で詳述した。要約すると、1922(大正11)年の第1回定期戦で早稲田サイドからこの問題の打診が慶應側にあり、翌年の第2回定期戦の事前打ち合わせ会で正式議題となったが、結論にいたらず、関東協会が初めて主催した1924(大正13)年の第3回定期戦でようやく実施の運びとなったことはすでに周知の事実。このさい徴収した入場料収入は諸経費を差し引いたあと、基金の名において協会が三分の一を、残りは両当事校(体育会あるいは学友会)が分けることに決まったわけである。
 ところが、関東協会の管轄内では落着したはずの入場料問題だったが、西部協会所属の京大から1927(昭和2)年度の東西大学対抗実施にあたって「入場料徴収はアマチュアスポーツの精神に反する」との強い反発が主管の関東協会に出された。かつて早慶戦の入場料徴収に否定的だったのは慶應の長老OB、なかでも最強硬派は関西在住組と伝えらたものだが、5年を経たいま、また関西から反対の声が起こったわけである。それも注目しなければならないのは、OBではなく問題提起が大学当局者から起こったという点。OB谷村敬介が京大六十年史に寄せている記述から、その間の事情をここに再録させていただく。
 「昭和二年十一月、私は東京に転任した。この暮に村山仁が訪ねてきた。用件は『来年一月一日に行われる慶應との試合は関東協会の主催であり、その規程によって入場料を徴収するとの通知があった。ところが末広重雄部長は入場料をとることはアマチュアスポーツの精神に反すると強く反対されている。何とかして協会に京大側の主張を容れて入場料を徴収せずに試合が出来る様に交渉して下さい。』とのことであった。協会の二、三の理事に会い京大側の事情を説明したが、『関東協会の規程を破って京大の主張を容れることは、今後協会の統制と秩序を乱すことになるから駄目だ。』と予想以上に強硬であった。このままで行けば或いは試合が出来ない、最悪の状態に陥るのではないかと憂慮し、京大の選手のことを思った。彼らは打倒慶應を合言葉として猛練習によって勝つとの自信を持って、試合の日を待っているだろう。万一試合が出来ないとなると余りにもかわいそうだ。何とかして試合が出来る様にしてやりたいとの気持ちが強くなった。協会の田辺九万三理事長等に村山仁と共に会い、『京大として、来年度からは入場料を徴収する規程を守ること』『一月一日の試合は入場料を徴収せず、これに代わるに入場料(五十銭)相当の金員(金額のこと)を観衆が国立競技場(当時は神宮競技場と称していた)の入口に設けてある箱に任意に入れて貰うこと』の妥協案を提出した。この妥協案は私の独断であった。
 これに対して田辺理事長は、先ず京大側は末広部長が反対しておられること計りを強く言っていることを鋭く批判したあと、この席上におる来年度の理事の村山を信用して京大提出の妥協案を諒承するとの大英断を下された。私はこの大決断に文字通り感謝感激した。村山は末広部長等に説明した結果、妥協案について諒解を得た。更に京大ラグビー部の入場料分配金の使途については、OBで構成する保管委員会で決め、選手を毒せないよう、アマチュアスポーツの精神を守ることにした。(後略)」(原文のまま)
 谷村原稿には後輩たちに寄せる切々の情とともに、大学当局と関東協会の間に立って最良の方策を模索する苦衷がビビッドに綴られてはいるが、関東では一般化しつつある有料試合が、京大ではなぜアマチュアリズムに反した行為と受け止められたのだろうか。この年度の入場料徴収試合は早慶、早同、早帝(東大)の3試合。関西のチームという点では同志社が、また帝大という官立(当時)系としては東大がそれぞれ早稲田との有料試合に臨んでいるが、両大学からの反対の声はなかった。80年近い歳月を経たいまとなっては、改めてその真意を確かめる術もないが、もし推測が許されるとするなら「京大ラグビーはあくまでも学内のクラブ活動。たとえそれが対外試合であったとしても有料化は学生スポーツの域を越える」という方針なり、原則が大学側にあったのかもしれない。
 いずれにしても、すでに関東では神宮競技場の完成がラグビーの試合実施に大きな変革をもたらしていたが、残念ながら関西ではまだ花園ラグビー場や甲子園南運動場が出来る前のこと。東西大学対抗ラグビーはじめ試合会場といえばすべて三高京大、同志社など、当事校のグラウンドがいぜんとしてメーンとなっていた。グラウンド使用料は無料、会場整理といってもとくにスタンドがあるわけでもないので、ラグビー部員なり体育会所属の学生たちで十分にことはたりる。大学当局がラグビーの対外試合を学内の体育祭的感覚でとらえ、位置付けていたとすれば、有料試合否定の発言があったとしても、ごく自然の成り行きというものだろう。末広重雄部長の立場にたてば当然の反対だった。関係者たちの努力で最悪の事態を免れた京大はさらに1928(昭和3)年度、1929(昭和4)年度と3年連続で全国制覇を達成するなど、関西勢としては初めての黄金時代を築きあげたことを付記しておきたい。
 なお、関東協会発表の1924(大正13)年度入場料決算表(別掲)によると、入場券の総発売数は3試合で5,513枚。その内訳は早慶戦3,585枚、早同戦1,240枚、早帝(東)戦688枚となっている。金額にして1, 653円90銭(入場料は1人30銭)。また京大が初の全国制覇を達成した昭和2年度の入場料金は一人50銭だった。ちなみに当時の親子丼一人前50銭、盛りそば一枚10銭、カレーライス一皿12銭というから、1927(昭和2)年度の入場料金50銭は親子丼並みというところか。