《日本に初めて専用グラウンドが》


 日本のラグビー界が世界に誇れるものの一つに東の秩父宮、西の花園というラグビー専用グラウンドが2ヵ所もあることだ。歴史的には戦後に建てられた秩父宮ラグビー場に対し、近鉄花園ラグビー場の完成は1929(昭和4)年12月22日というから、人生に譬えれば日本協会設立80周年の記念すべき年に喜寿を迎えたわけである。このように両スタジアムの歴史には、戦前と戦後の違いこそあるが、大きな共通点がひとつある。東京の秩父宮ラグビー場の名称でもわかるように、秩父宮さまのご尽力なくして日本のラグビー界が東西に専用のスタジアムを持ち得なかったという事実である。日本ラグビー史をはじめ近鉄ラグビー部五十年史、日本協会機関誌などには、秩父宮さまと花園ラグビー場建設にまつわる秘話や歴史がいろいろ綴られているが、ここでは日本ラグビー史の記述から、当時としては稀有の出来事ともいうべきラグビー専用グラウンド建設の昔を振り返ってみた。
 事の起こりは秩父宮さまが橿原神宮ご参拝のため大軌電車(現在の近鉄)を2度にわたってご利用になったことにはじまる。最初にご乗車の際、陪乗の大軌専務種田(おいだ)虎雄に「沿線にはずいぶん空き地があるね。この辺にラグビーの専用競技場をつくったら…』と感想をのべられ、2度目のときもグラウンドが話題となった。大軌電鉄としては直宮からの再度にわたる専用グラウンド建設の話である。そのまま放置しておくわけにもいかず、1928(昭和3)年12月10日に緊急役員会を開いてラグビー場建設を決議。翌11日付け大阪毎日新聞に「東洋唯一のラグビー専用競技場の建設」と3段抜きの見出しで報じられたが、記事には建設の動機が「秩父宮殿下のお言葉による』ものだったことも詳しく書き込まれていたという。
 日本ラグビー史によると、秩父宮さまは大軌の種田虎雄専務に「沿線の開発事業としてラグビー専用グラウンドの建設を…」提案されたとあるが、阪神電鉄の甲子園球場、阪急電鉄の西宮球場、南海電鉄の大阪球場などの例をみるまでもなく、関西の多くの私鉄は沿線開発のプロジェクトとして野球のプロチームを経営し、合わせて野球場の建設をも手がけていた。もちろん、いまではこれら電鉄が経営する戦前からのプロチームで生き残っているのは阪神電鉄のタイガースと甲子園球場だけだが、その点、ラグビーがプロ化する以前のアマチュア時代から21世紀を迎えた今日まで「日本のトゥイッケナム・ラグビースタジアム」として幾多の名勝負を生み、また名選手、大選手輩出の場となってきた近鉄花園ラグビー場の栄光はいまも燦然と輝やきつづけている。
 話は遡るが、イングランドのトゥイッケナムといえば大軌電鉄が花園ラグビー場建設にあたってモデルとしたスタジアムでもある。西部協会ではわざわざ名古屋から東大OBの澤田健一を呼び寄せるなど、協会内に専門委員会を新設。杉本貞一、久富達夫らを中心に、関東協会の田辺九万三、香山蕃らとも連絡をとりつつ最終案まとめあげた。フィールドの長さは160ヤード(145.6メートル)、幅75ヤード(68.3メートル)に加えて、周囲に各10ヤード(9.1メートル)幅のスペースを設けたほか、縦横1/100の勾配をつけることで水はけをよくし、全面に高麗芝を植え付けるという内容。しかし、ブルーフォートはできたが、なにぶんにもラグビー専用のスタジアム建設は日本がはじめて経験する大工事。そこでフィールド関係はさきに甲子園南運動場をてがけた林英夫、観客席などスタンド関係は中尾保に設計、施工を依頼することになった。
 建設費の予算は50万円。工事は清水組によって翌1929(昭和4)年3月に着工され、同年10月には完成という俗にいう突貫工事で行われたが、スタンドの鉄傘などはともかく、4, 800坪(144アール、15, 800m2)のフィールド全面を基盤から掘り返した後、割石を入れ、川砂を盛って、芝の生育に細心の注意をはらうなど、初めてにしてはラグビーというフィールドスポーツへの配慮が行き届いた建設工事ではあった。
 大阪毎日新聞が日本初のラグビー専用球技場建設を報じてからちょうど1年と10日後の1929(昭和4)年12月21日。日本協会は開場式に、ご結婚間もない秩父宮ご夫妻をお迎えして、全日本OB─学生選抜の試合で新装なった専用スタジアムの門出を祝福したが、関係者の話によると、生みの親ともいうべき宮さまご夫妻は式典へのご出席にさいし、協会はじめ電鉄、工事関係者たちの労をねぎらわれたということである。
写真・図表
花園ラグビー場、生みの親秩父宮ご夫妻をお迎えして開会式が行われた。

 また、ラグビー場の正式名称は「日本ラグビー蹴球協会専属花園ラグビー場」と命名され、国際試合や大学ラグビー、全国中学大会など、日本ラグビー界発展の推進役を務める舞台となったが、おりから勃発した太平洋戦争は花園ラグビー場にも暗い影を落とした。花園名物とラグビー愛好者に親しまれた建設当初の大鉄傘や大時計台が強制的に供出を余儀なくされたほか、敗戦後には日本に進駐してき米軍第98師団にラグビー場そのものが接収されるなど、花園グラウンドも例外なく苦難の道を歩んでいる。
 花園ラグビー場が日本のラグビー界に返ってきたのは1949(昭和24)年のこと。すでに東京ではわが国2つめのラグビー専用グラウンド、東京ラグビー場(現秩父宮ラグビー場)がデビューしていたが、「ラガーマン手作りのラグビー場」と報道されたことでもわかるように、フィールドは全面が土、シートも板のベンチ式と、設備の点ではまだまだ花園ラグビー場の比ではなかった。なかでも花園の関係者たちが誇りとするのは、1952(昭和27)年秋に来日したオックスフォード大学の選手たちが「世界でトゥイッケナムにつぐグラウンドと賛嘆」した芝生のフィールド。ラグビーの本場英国から初めて迎える名門大学との国際試合を前に、芝生化を緊急課題とした東の専用グラウンドとは年季の入れ方に違いがあったということだろう。戦後は「近鉄花園ラグビー場」と改称。1956(昭和31)年から全国社会人ラグビー(トップリーグの前身)の会場として、また1963(昭和38)年からは全国高校ラグビーの常設会場としてメイングラウンドのほか、新設の第2、第3グラウンドをフル活用するなど、高校ラガーマンにとっては憧れの聖地となっている。