《甲子園南運動場と全国中等学校大会》


 「かつて、戦前の若いラガーメンが、一度は出場してみたいと悲願し、又ラグビーのMeccaとして景慕されていた甲子園南運動場は、第二次世界大戦の終了後に、そのコンクリート造りの巨像が、なんの惜別もなく取り壊されてしまった。現(いま)では、その偉容とラグビーの戦跡をしのぶに一片(いっぺん)の残姿とてなく、6階建の公団住宅が数十棟連立して、海岸からの清風をうける健康的な大住宅街とかしている。ある日、私はその住宅街の前に佇み、3万数千人の観客収容力のあったその大競技場を夢みながら、かつて、全国の各地域から選出された旧制中学チームの競技者達が、青春の気鋭をラグビーにたくして、15年間の各年次大会に於て、肉弾あいうつ火花をちらして勝敗を競(きそ)った悲喜こもごもの情景を、昨日のように、まのあたりに追想した。(中略)」
 スポーツの歴史家として、また記録の収集家として多くのスポーツ愛好家から親しまれた田尾栄一の遺稿である。原稿は日本協会発行の「RUGBY FOOTBALL」1976年1月号に掲載されたものであるが、この項の小題にぴったりだったので引用させてもらった。文中にもあるように、消滅してしまったいまとなっては、戦前のラガーマンにとって忘れ難い一種独特の雰囲気をもったノスタルジックなスタジアムともいえるだろう。完成は花園ラグビー場に先立つこと1年。ラグビー専用という点では花園とは異なるが、両スタジアムの共通項を探せば、建設にあたっての秩父宮さまとの関わりである。日本ラグビー史は次のように書き残している。
 「このグラウンドが新設される直接の動機も、秩父宮殿下のお思召によったのであるが、当初の起案がラグビー専門の競技場であるべきはずのものが、電車会社(阪神電鉄)の採算上の見地からその後に修正が加えられ、季節的に偏しないよう陸上競技も利用できるよう設計が変更された。既述のように、昭和3(1928)年2月12日、第1回東西対抗が甲子園野球場で行われ、秩父宮殿下の御台臨があったが、そのとき、ラグビー競技をはじめて観覧した阪神(電鉄)の社長島徳蔵が、殿下がかくまでにご愛好になっているラグビーの歴史的な試合に、畑ちがいの野球場を充当したことにたいへん恐懼(きょうく)して、大至急ラグビー専用競技場を阪神沿線に造らねばならないと決意したのがその動機であった。綜合グラウンドとはいっても、フィールド内は立派な芝生で、ラグビーにはきわめて好適であったので、昭和5(1930)年1月の第12回全国中等大会から大会会場として使用されるようになり、戦争中の昭和18(1943)年まで継続した。戦後、米軍のモータープールに転用され、戦後大会再開の(昭和)22(1947)年からは西宮球場に会場が移された」(日本ラグビー史から)
 ラグビーの発展を側面から支えてくれたのが関西の電鉄2社だったことは、花園ラグビー場であり、甲子園南運動場についての記述でもよく理解できるが、さらにもう一つとなると、それは大阪毎日新聞社によって起こされた「日本フートボール優勝大会(全国高校大会の前身)である。いまその起源をたどれば遠く1918(大正7)年1月12〜13日に行きつくが、同じ年の11月に早稲田ラグビーが東京でやっと2番目のチームとして産声をあげた古(いにしえ)の歴史に思いをいたせば、この大会が日本ラグビーの発展にどのような関わりをもってきたかがわかろうというものだ。とにかく、日本協会はもとより関東、西部両地域協会成立以前に、いまでいう日本選手権的大会の開催に踏み切った発想と行動パワーのものすごさ、すばらしさにはただただ驚きのほかはない。
 関西ラグビーフットボール協会史が「全国高等学校ラグビーフットボール大会」の項で、杉本貞一の話として大会発祥のいわれを掲載している。再録した。
 「いつもぼくが云って来たことだが、ラグビーは毎日新聞なんだよ、これだけは言残しておきたかった。あれはたしか大正5、6年だったと思う。僕等の親しいラグビー仲間が集って、なんとかラグビーの底辺を広げることについて話しあったことがある。ほとんど毎日のように集ってその方法を検討した。その結果助けを毎日新聞社から得ようということになり、ぼくが使者になって当時運動課長であった西尾守一君のところへいった。趣旨には彼もすぐ賛成してくれ、さっそく後の毎日新聞社長奥村信太郎さんへ話を持ち込むと、金のことなら心配しなくてもよい。ひとつやってくれと即座にOKが出た。奥村さんはぼくの慶應の大先輩ということで内心期待していたんだが、このときは嬉しかったね。もっとも当時はラグビーをやっている学校が非常に少なかったので、サッカーと一緒にしてはどうかということになり、大正7年の第1回大会はラグビーとサッカーを含めてやったんだ。だからぼくはラグビーは毎日新聞だといったんだよ」(原文のまま)
 第1回大会の会場となった大阪・豊中グラウンドは甲子園南運動場と同じ形式の総合グラウンドだった。ラグビー、サッカーともこの競技場のフィールド部分をそれぞれの会場としたわけだが、ラグビーは南北に、またサッカーは東西にそれぞれラインを引いてグラウンドとしたという。はたしてひとつのフィールドで両競技のグラウンドが同時に確保できるとは…。現代感覚ではちょっと理解しにくいことではあるが、大正7年1月11日付け大阪毎日の紙面に掲載された「競技番組(順序)」で、その疑問は解けた。第1日の競技開始は正午からまずア式を2試合。そのあと第3試合(キックオフ:午後2時10分)でラグビーの三高─同志社戦が行われた。第1回大会の出場チームは同志社、三高、京都一商の4チーム(慶應は棄権)。優勝は同志社だったが、ほかにエキシビションゲームとして大会第2日に三田倶楽部(慶應OB)─大学倶楽部(三高OB)戦が行われ、大学倶楽部が6−3で勝っている。
 この第1回大会で特筆しておかなければならないのは、大学や高校(旧制)など上級学校に伍して、京都一商が唯一の中学チームとして参加していることである。初戦の相手は慶應だったが、当日になって慶應が棄権したため不戦勝。翌2日目の決勝戦で三高を破った同志社に挑戦して敗れているが、いまなら正規の大会で高校(新制)チームが大学チームと対戦することなどありえないこと。さすがに主催者側も第3回大会(1920=大正9年)から中学だけの大会に改正。現在の全国高校大会の形となったが、それでも参加校は第2回大会の同志社普通部、第6回大会の立命館中学、第7回大会の京都中学とすべて京都勢。ようやく第8回大会から京都三中のほか、天王寺、北野の大阪勢の参加はあったが、大会スケールとしては京都大会が京阪大会に広がっただけ。この大会が名実ともに発足時の名称である「日本フートボール優勝大会」にふさわしい参加校の全国化を実現したのは1926(大正15)年の第9回大会からといえるだろう。この年には東京から慶應普通部と早稲田実業、九州から福岡中学のほか、異色のチームともいうべき南満州工業が初めて参加し、後に朝鮮、台湾へと外地勢参加の道を拓くことになったが、同時に地域予選制になったのもこの年度からだった。
 また、大会会場が豊中運動場だったのは1922(大正11)年の第5回大会まで。第6回、第7回は宝塚球場で行われ、第8回から新しく阪神沿線に完成した甲子園球場へと移ったが、前述のようないきさつで1928(昭和3)年に甲子園南運動場が完成するとともに、3大会つづいた甲子園球場に別れをつげ、1929(昭和4)年の第11回大会から新装なった南甲子園運動場に舞台を移した。ここで会場もはじめて定着。戦前の中学大会としては1943(昭和18)年1月の第25回大会までの15年間にわたって、もっとも花やかな時代を迎えたが、太平洋戦争の激化で大会は中断。戦後の1947(昭和22)年に西宮球技場で復活するまで第26回大会は延期となってしまった。大会の再出発については「第2編 敗戦の焦土から復興へ(1945〜1963)」で詳述する。
 なお、大会の名称は第2回大会から「フットボール」と改称されたが、「ラ式フットボール」の呼称が「ラグビーフットボール」に変わったのは7年後の1924(大正13)年のこと。日本ラグビー史には「第1回明治神宮競技大会のあと、11月8日の事後整理打合会で、ラグビーの香山蕃とサッカーの野津謙から『フットボールにラ式とかア式とか書くことは中止せられたしとの希望あり』と記録にとどめられている」とだけ記されているが、中止の申し入れ先については不明。
全国中等学校ラグビー大会
回数  年度      優勝校  準優勝校 会場     備考
第1回  1918(大正7)年  全同志社 京都一商 豊中
第2回  1919(大正8)年  三高   同志社普 豊中
第3回  1920(大正9)年  同志社中 京都一商 豊中     中学が分離
第4回  1921(大正10)年 同志社中 京都一尚 豊中
第5回  1922(大正11)年 同志社中 京都一商 豊中
第6回  1923(大正12)年 同志社中 立命館中 宝塚
第7回  1924(大正13)年 同志社中 京都一商 宝塚
第8回  1925(大正14)年 京都一商 天王寺中 甲子園球
第9回  1926(大正15)年 同志社中 南満州工 甲子園球   大会名改称
第10回 1928(昭和3)年  同志社中 天王寺中 甲子園球
第11回 1929(昭和4)年  同志社中 早稲田実 甲子園南運
第12回 1930(昭和5)年  慶應普  同志社中 甲子園南運
第13回 1931(昭和6)年  京城師範 天理中  甲子園南運
第14回 1932(昭和7)年  京城師範 同志社中 甲子園南運
第15回 1933(昭和8)年  京城師範 天理中  甲子園南運
第16回 1934(昭和9)年  秋田工  京城師範 甲子園南運
第17回 1935(昭和10)年 台北一中
            鞍山中  同時優勝 甲子園南運
第18回 1936(昭和11)年 天理中  神戸一中 甲子園南運
第19回 1937(昭和12)年 培材高普 台北一中 甲子園南運
第20回 1938(昭和13)年 秋田工  養成高普 甲子園南運
第21回 1939(昭和14)年 撫順中  秋田工  甲子園南運
第22回 1940(昭和15)年 撫順中  秋田工  甲子園南運
第23回 1941(昭和16)年 台北一中 福岡中  甲子園南運
第24回 1942(昭和17)年 北野中  天王寺中 甲子園南運  関西大
            福岡中  鞍山中  福岡春日原  九州大会
第25回 1943(昭和18)年 天王寺中 福岡中  甲子園南運 (太平洋戦争のため中断)
第26回 1947(昭和22)年 福岡中  神戸二中 西宮球技場
第27回 1948(昭和23)年 函館市中
            秋田工  同時優勝 西宮球技場 (学制改革で新制高校大会に移行)