《戦前の全国高専大会》


 全国高等専門学校ラグビーフットボール大会の歴史はなかなか複雑である。日本ラグビー史は「大正7(1918)年の大毎主催の『フートボール大会ラ式の部』から、時に応じて形式や場所や主催を変えながら継続してきた歴史のある大会」と記述。また関西協会史にも「大正7年に創められた日本フートボール優勝大会に源を発して…」とあるので、起源については日本、関西両年史とも一致はしているが、厳密な見方をすれば大会が同根だった1918、1919年の第1、2大会はプレ大会。歴史の正統制という点では、それぞれ全国中等、全国高専大会へと分離した1920(大正9)年の第3回をスタートの年とすべきであろう。関西協会史も後述の部分で「第3回より高等学校、高等専門学校が独立して、全国の大学予科、高等学校、高等専門学校でもって大会を行っている」と書き加えている。
 ところで、全国中等学校大会は戦後の学制改革で全国高等学校大会と名称が変わっても大会は継続して現在にいたっているが、全国高専大会の実態はちょっとちがうようだ。関西協会の年史には「昭和24(1949)年の第21回大会を以って自然消滅した。この新しく出来た新制大学によって出来たのが全国地区対抗大学ラグビーフットボール大会である。謂はば旧の全国高等専門学校大会の後身と称してもよいと考えられる」と記しながらも、現在の全国地区対抗大学大会が戦前の高専大会の後身とは断定していない。日本ラグビー史にいたっては昭和18年度の大会まで。それ以降についての記述は皆無となっている。関西協会史がいうように、大会そのものが「自然消滅した」と考えるべきだろう。
 さきに日本ラグビー史は「…時に応じて形式や場所や主催を変えながら…」とこの大会の歩みを表現しているが、なかなか云い得て妙である。プレ大会から独立した第3回大会(1920年)は参加チームがなかったため開催見送り。ようやく第4回大会に慶應予科、大阪高商、関西学院の3チームが参加して大会復活をはたしたが、大会らしくなったのは会場が甲子園球場に移った1925(大正14)年の第8回大会からである。出場校も前年度優勝の三高はじめ早高学院、同志社大、関西大、大阪高校、大阪高商、関西学院、大阪外語の8チーム。大会日程がはじめて3日間となったほか、同時開催の中学大会の参加校も7校に増えたことから、臨時に鳴尾と甲陽中学の両グラウンドを予選会場とするなど、豊中、宝塚時代では考えられなかったような充実した大会となった。しかし、主催者大阪毎日新聞社としては手放しで喜んでもいられなかった。この年の9月に西部協会が設立されたのを機に、全国高専大会そのものが改編(改編要細参照)され、主催者が京都帝国大学となり、以後、大阪毎日新聞社は後援ということでこの大会をサポートしていくことになる。ラグビー界に統括機関が誕生したことによる改編であり、これも当然の成り行きといえるだろう。ただ、京都帝大の主催は第1回大会だけ。第2回大会では「主催:日本ラグビー蹴球協会、主管:帝大ラグビー連盟」と変更されたものの、大正天皇の崩御、諒闇で大会そのものが無期延期。つづいて1928(昭和3年)の第3回大会では西部ラグビー蹴球協会、第4回大会では日本ラグビー蹴球協会、そして第5回で再び西部ラグビー蹴球協会の主催となってからは、とくに同協会史に主催者の記述がないこと、この項の冒頭で「全国高等専門学校大会は西部協会が主催し…」と謳っていることの2点から、例外の年度を除いて西部協会主催が定着したものとみられる。また、改編後の大会が京大グラウンドを会場としたのは第4回大会まで。1930(昭和5)年の第5回大会から1947(昭和22)年の第19回大会まで花園ラグビー場が会場として使用された。
 このように主催、会場など大会を形成する骨格には多々変更はあったものの、1932(昭和7)年の第7回大会に早高学院が関東代表となってからは、大会そのものが大きな様変わりをみせはじめた。すなわち早大専門部、明大予科、専門部、慶應予科など関東のビッグ・3といわれた主要大学の主力をメンバーに擁するチームが登場するにおよんで、大会のレベルは飛躍的に向上。同時に第10回大会優勝の同志社予科を除いては、早、慶、明の予科、あるいは専門部の代表チームが交互に王座を独占するなど、大会の内容、雰囲気が一変してしまった。例えば1932年(昭和7年)の第7回大会優勝の明大予科から1941(昭和16)年の第16回大会優勝の慶應予科までの10年間、高専大会の覇者となったチームの母体、いわゆる大学チームが、100%とまではいかないまでも、ほぼ関東大学対抗戦の覇者となっている。関東大学の王座を争う早、慶、明の指導者にとって、全国高専大会の存在がどれほど大きなものであったかがよくわかるだろう。