【実業団とラグビー】
戦前の社会人ラグビーを伝える記録は少ない。公式のものとしては
日本ラグビー史が東西の実業団ラグビーを総括的に、また関西協会史が同地域の実業団チームとその活動ぶりを記録とともに紹介しているが、これらの史料からおぼろげながら浮かび上がってくる戦前の社会人ラグビー、すなわち当時の呼称でいえば実業団ラグビーの活動は関西地区のほうが、関東のそれを上回っていたようにもとれる。
理由をあげるとすれば、まず関東では大学ラグビーの興隆で関係者はじめ一般ファンの関心がそちらに向いていたということだろう。
日本ラグビー史には関東で実業団の誕生は「大正13、14年ごろ東京電気(
マツダランプ)、愛国生命、常盤生命などであろう。東京電灯あたりも歴史は古い。なかでも常盤生命のチームは、当初の2ヵ年に20余回も試合をしている記録がある」と記されているが、さて発祥の年月日、試合記録など正確なデータとなるといまひとつはっきりしない。
慶應義塾、
早稲田、明治各大学のラグビー史が掲載している対戦記録を調べてみても、慶應六十年史には公式、オープン戦を問わず実業団チームとの対戦記録はゼロ。
早稲田六十年史には3試合の記載があった。いずれも国鉄チームとの対戦。最初の試合は1932(昭和7)年2月21日に鉄道省が対戦相手。29−6で
早稲田が勝っているが、競技場は空白。また2、3試合目は1935(昭和10)年10月5日に
早稲田の2軍チームが仙台鉄道局、東京鉄道局と2試合を行い、第1試合は20−23で
早稲田2軍の惜敗。第2試合は8−6で
早稲田2軍が辛勝している。競技場は駒場となっているから一高グラウンドでの2軍戦ということになる。また明治大学ラグビー史には明治と関東の実業団チームとの対戦を記録した記述はまったくないが、1933(昭和8)年11月1日に全明治が西部協会所属の
朝鮮鉄道局と対戦し、36−3で快勝している。競技場は和泉とあるから明治大学のグラウンドだろう。
朝鮮鉄道局のラグビーで思い出すのは昭和4年度主将知葉友雄が育てた強豪チームということ。明治では北島忠治監督が1年先輩にあたるところから、全明治との対戦が実現したのだろう。
なお、1933(昭和8年)度の関東協会登録の主たる実業團チームは、前記チームのほか日清、帝国、千代田、第一、安田、明治の生命保険関係、東京海上、東京、太平の火災保険関係、東邦電力、王子電気、富士電機、逓信省電気試験所の電気関係、さらに芝浦製作所、東京中央放送局、大倉組、コロムビア、松坂屋、白木屋、三省堂、木村屋、正路喜社、川崎第百、正金銀行、東京日日新聞、東京
朝日新聞、日魯漁業、北海道炭礦汽船などとなっている。(
日本ラグビー史)
このようにみてくると、戦前の関東で指摘したいのは、企業ラグビーの組織化に欠けていたのでは──という疑問であるが、残念ながらいまここでその点を明らかにする史料がない。課題の解明を今後に托すとして、ここからは関西の実業団ラグビーについて記してみよう。関西協会史は「関西における実業団チームの誕生と発展」の項で、まず「関西における実業団チーム第1号は大阪毎日(新聞社)である」と紹介しながら、新聞社にラグビーチームが誕生した背景として、この80年史の前史にも登場したラグビー草創期の慶應OB松岡正男(編集局経済部長)、同志社、
京大両校OB鈴木三郎(同外国通信部長)の長老クラスから、
日本協会設立に関わった
東大OB久富達夫、早慶ラグビー実現の功労者で
早稲田を代表していた中村元一ら、ラグビー界のそうそうたるメンバーの名を列挙。そしてチーム結成の決め手として、この年史でも前述した大阪毎日新聞社が「
日本フートボール優勝大会」の主催者だったことをあげている。
大毎チーム結成の年は1926(大正15)年1月。関西協会史によると、第1戦を北野中と同校の校庭で行っている。その時のメンバーは松岡、窪田、小林、石黒、小野、久富、高須、井川、鈴木、川越、谷山、野村、大畑、中村、吉川の15人。レフリーは慶應OBの杉本貞一だが、注目されるのは小野、高須という大毎球団(アマチュア)所属のスター選手が名前を連れていること。試合は3−6で大毎が惜敗という記録が残っているが、第1戦の相手が北野中学だったことについては、同校のラグビー部75年史の記述に、中村元一がボランティアで北野中学のラグビー部をコーチしていたことによるものとみられる。
この大毎チームを追うように
京大OB、同志社OBらによる京阪電車、関西ラグビー倶楽部の選手らが中心の大同電力が誕生。後に大毎を加えた3チームで実業団リーグが結成されるとともに、1928(昭和3)年12月にリーグ戦が開幕し、大同電力が京阪電車、大毎をそれぞれ破って初年度のチャンピオンに輝いている。リーグ戦開幕前の個別の対戦としては、1928(昭和3)年3月に京阪電車が北野中学OBと対戦し6−9で惜敗。また同4月には大毎が再び北野中学と対戦して16−17と1点差で敗れているほか、翌1929(昭和4)年1月には大毎─満鉄戦が行われ、8−28のスコアで大毎が敗れるなど、旧制中学と実業団、実業団チーム同士の対戦記録が残っている。
また1929(昭和4)年9月発行の西部協会会報第1号には実業団の大阪支部加盟チームとして、前記3チームのほか大阪鉄道局、
日本電力、大軌電車、阪神電車、阪急電車、大阪朝日、大阪市役所、オール野村、大丸蹴球部の各チームが掲載されているが、5年後の1934(昭和9)年度には名古屋5、京都1、大阪19、神戸13、中国3、九州6、朝鮮4、満州7、
台湾2の9支部合計が60チームにまで拡大。その間、1932(昭和7)年3月には西部協会大阪支部主催の大阪実業団大会と神戸支部主催の実業団大会が同時に発足するなど、戦前の地域ラグビー発展に貢献してきたが、一方でこれら地方の実業団に刺激を与えたものとして、関西協会史は全国鉄道大会をあげている。
鉄道大会といっても出場チームが全国にまたがるため、
日本協会の管轄にはいるが、第1回大会は1930(昭和5)年2月に南甲子園運動場で開かれ、東京、門司、大阪の各鉄道局に鉄道省を加えた4チームが参加し東京鉄道局が優勝している。第4回大会も会場は関西の花園ラグビー場で開催されたが、民間の企業と異なる国営企業という特殊な形態ではあったが、単一系列の団体による大会開催が
日本ラグビーの発展にはたした役割は、評価しなければならないだろう。
【ラグビーと陸、海軍】
慶應蹴球部六十年史に
日本のラグビーと陸軍の関係を伝える手記が掲載されている。筆者はOBで、1918(大正7)年度蹴球部主将の塩川潤一。これをもって陸軍ラグビーの嚆矢とするには、1907(明治40)年ごろの情報として、麻布の第3連隊への指導を伝える田辺九万三メモなどもあって、ここでの断定はひかえるが、現存する貴重な証言のひとつにはちがいなく、
日本協会80年史にも塩川手記の存在を記録としてとどめておきたい。
「まだ東京のどこの学校も始めていない時、陸軍戸山学校で、ラグビー蹴球を正式に始める事となり塾からコーチに行くことに決定、私が普通部時代から、中絶しながらも卒業する頃まで(続)けられていました。
規律に縛られた陸軍の学校が、ラグビーを始める事になつた動機は、当時毎年学生角力対抗試合があり戸山学校も参加していたのです。塾にもまだ角力部はなく、柔道部や蹴球部の猛者が集り、試合前に松岡正男さんの同郷の綾川関などを招き、寄宿舎の中庭で練習して選手を定めていたのです。其の選手の中にまれに見る立派な筋肉型体格の伊達君始め、ラグビー選手が常に参加していたのです。角力の成績も抜群なのを見て、柔道の高段者の強いのは解るが、斯る立派な選手を出す、ラグビーとは何んな運動かとワザワザラグビーを見学し、スッカリ感心、早速戸山学校でも採用する事になつたという事です。(後略)」(慶應蹴球部六十年史から)
塩川潤一の手記はまだまだつづくが、陸軍戸山学校でラグビー採用のいきさつ、理由がはっきりしたので後半部分は割愛させてもらった。ただ歴史書としては採用の正確な時期、あるいは戸山学校以前にラグビーと陸軍を結びつける事実の有無について解明できなかったのは残念といえば残念なことではあるが、塩川潤一の普通部入学は1909(明治42)年。手記には「卒業する頃までつづいた」とあり、また後半の部分に「常に気楽に出来る様普通部生十五人を連れ…」とあるので、塩川潤一のコーチ就任は普通部のシニア─時代と想像される。このように推測していくと、戸山学校が教科の一端としてラグビーを導入した時期は、1912(明治45/大正1)年の前後からとなってくる。
早稲田ラグビーの発祥が1918(大正7)年ということだから、東京では慶應に次ぐ2番目のラグビーチームといえるようにも思えるが、対外試合の記録などに欠ける点などを考慮にいれると、早計には断定できない。ただ、
早稲田六十年史掲載の記録をたどっていくと、大正12(1923)年度のところで
早稲田関係のチームと陸軍チームとの対戦記録が2試合だけ収録されていた。
「13・2・24
全陸軍11(0−11、11−0)11 GB 戸塚」
「12・12・24
近歩一 6(──、──)3 理工科 戸塚」
ほかに陸軍関係の試合記録としては、
日本ラグビー史が歩一(第1師団歩兵第1聯隊)について「大正13年1月13日に綱町で新進の
明大を14対0で負かしている」と明治との対戦を紹介。さらに「麻布の歩兵第3聯隊にもチームが生まれ、時にこれらが横に連合して『全陸軍』と称して大正15(1912)年11月28日、慶普(慶應普通部)と試合して16対6で勝っている」とも記している。
これら陸軍ラグビーが東京など首都圏で活発化していたのに対し、海軍関係は関西以西での活動が記録として残っている。中心となったのは広島県江田島の海軍兵学校と京都府舞鶴の海軍機関学校。
日本ラグビー史には「ただ、ラグビーに触れたというだけなら、海軍の方が陸軍よりはるかに古いようである。慶應OBの松井竜吉の回想の中に、慶應の第1期の選手、山崎不二雄(蹴球部初代主将)が、卒業後海軍に入って主計大尉となり、兵学校でラグビー普及に尽くした」とある。山崎不二雄の慶應卒業は1905(明治38)年。そして海軍での階級が大尉というから、山崎不二雄と兵学校の関係が生じたのは遅くとも大正の初期と推測しても間違いではないだろう。
また、同年史は「横須賀鎮守府所属の広瀬豊という海軍中佐が呉に転じて鎮守府管内にラグビーを普及せしめようと計画して、大阪の極東オリンピック(1923=大正12=年5月)の終わったあと、慶應の全員を呉に招き、司令長官鈴木貫太郎のお声がかりで、兵学校はじめ所属の軍艦約40隻の各艦毎にチームを編成。コーチをうけしめた。(要旨)」と、その後の活動についても述べているが、この記事からは時期ばかりか、スケールの点でも陸軍をしのいでいたことがよくわかる。
ここに海軍機関学校40期松本尚の「ラグビーと機関学校」と題する回顧録がある。それによると「私は昭和三年舞鶴の海軍機関学校に第四〇期生徒として入校しました。当時機関学校には球技と称して正課に『ラグビーフットボール』『サッカー』『野球』が取入れられていましたが、私はその一つの『ラグビー』部に入りました。ラグビーは以前より機関学校の正課でしたが、飛躍的にのびたのは昭和三年以降ではなかったかと思います」との書き出しで、当時の機関学校ラグビーがセブンFWであったこと、1929(昭和4)年の冬休みに
三高の寮で寝泊りしながら京都一商に4−16で負けたこと、翌1930(昭和5)年にセブンFWながら
三高のエイトFWに押し勝って第1回定期戦に勝利したことなど、機関学校と京都の学校チームとの交流が綴られているが、原稿の最後の部分に注目すべき記述があった。それは「機関学校のコーチが1942(昭和17)年にそれまでの
京大OBから明治大学の北島忠治監督に交替した」という個所。記録によると、
三高─海軍機関学校定期戦は1941(昭和16)年5月18日に舞鶴で行われた第21回定期戦で終わっている。そして7カ月後の12月8日に太平洋戦争がはじまったことを考えると、海軍の機関学校が対外試合を停止したのは当然の処置と納得できるが、問題はそのような時期になぜ機関学校が北島忠治監督をコーチとして招聘したのか─という疑問。いまとなっては確かめようもないが、ただ、明治のラグビー部史昭和15年度のところに、北島忠治監督の記述として「…私はここ数年海軍機関学校のコーチを依頼され…」とあり、北島忠治のコーチ説に間違いはない。回顧録にある昭和17年という時期については、筆者の記憶違いと理解するのが妥当のようにもおもわれるが…。
なお、香山蕃が自著の中で「1923(大正12)年11月に江田島へ移転していた海軍機関学校生徒に、ラグビーの講演とコーチをした」と記しているが、1923年といえば5月に慶應蹴球部が呉鎮守府司令部の招待をうけた年。その約半年後に香山蕃は当時江田島にあった海軍機関学校を訪れたことになる。