【日本代表が初めてカナダ遠征へ】
日本協会は1930(昭和5)年8月に日本代表チームをカナダへ送った。日本ラグビーの世界へのデビューとなった記念すべき遠征であり、戦績(7戦6勝1分け)の点からも日本ラグビーの存在を世界に印象づけた遠征と、一般的にもその評価は高い。なかでも遠征地カナダで日本チームに寄せられた賛辞の数々は予想外だったという。日本選手団の団長を務めた香山蕃が協会五十年史に「何処へ行っても私にお祝いをいってくれる言葉はお前のチームは大変クリーンプレーをする。お前のプレヤーはスポーツマンであるということでした。それが私にとってなによりも嬉しかったのであります」と綴っているが、この喜びの言葉の中には、もうひとつの大任ともいうべき民間レベルの国際親善、すなわちスポーツ外交を立派に果たし得たという誇りが文中の行間にこめられている。現代のように国際交流の日常化、プロ化が際限なく進むスポーツの世界では、ともすれば勝敗やヒーロー、ヒロインだけにスポットが当てられ、本来スポーツの国際交流がもつ友好親善の側面を強調する気配すら消えてしまった。時代が変わったといってしまえばそれまでだが、いま日本ラグビーの歴史を振り返るとき、カナダ遠征の先人たちが果たした国際親善の大役の偉大さを改めて再認識するものである。同じことが慶應や明治の上海遠征、そして日本代表のカナダ遠征の原点ともなった早稲田の豪州遠征へと遡っていく。戦前の日本ラグビーが備えていた最大の美点ともいえるだろう。
この香山蕃の誇りと喜びを具体的に綴っているのが、日本代表のFWメンバーとしてカナダ遠征に参加した岩下秀三郎の回顧録である。岩下秀三郎といえば東京毎日新聞の運動部記者。その岩下秀三郎が試合で感じた当時のカナダラグビーについて、またラグビーを通して地元の人たちと接したときの印象などを、記者らしい筆致で慶應蹴球部六十年史にまとめている。カナダ遠征の全貌を伝える貴重な史料といえるだろう。①「カナダのラグビー」②「日系二世との交流」③「地元関係者や民間人たちの熱い歓迎」──の3点について要旨を下記の通り引用させてもらった。
①カナダ・ラグビーについて:「カナダのFWはオールブラックスの遠征以来、その影響で『2・3・2』システムと聞いていたが、この度は最後のブリティッシュ・コロンビア(BC)大学だけがイングランド・フォーメーションの『3・2・3』。第1戦から第6戦の相手はすべて『3・4』のセブンFWだった。彼らがセブンFWを採用している理由はいうまでもなく、ブレークアップを第一義としているからである。HBは大抵の場合、一人、スタンドオフ二人、TB四人、結局六人のTBラインを造っていたので、これに対して全然経験のないわれわれはゲームの最初においては少なからず困惑を来したのであった。しかしスクラム自体は確かに弱いように思われたが、ただサードローに代わるセカンドローの出足の速さは認めなければならない。日本チームの動きは彼ら以上に敏捷と見られていたらしいが、バンクーバーチームの『長身を利したTBの一人置きのパス(いまでいう飛ばしパスらしい)は、ビクトリアのドリブルとともに、われわれにとっては恐るべきものであった。またBC代表のハイパント攻撃は前数回の対日本チーム戦の経験から考えた作戦で、体力と走力に優れた彼らにとっては当を得たものであったろう。彼らのチームはだいたい社会人からなっており、シーズン初めで練習不足の点がみとめられたが、もし彼らに一ヶ月の余裕を与えチームワークが出来たなら、われわれは幾試合か敗戦の憂き目を続けたかもしれない」
②日系二世との交流:「バンクーバーには日本人町が出来ているほど、多くの在留邦人がいた。港に着いて多くの同胞の出迎えを受けたときは、われわれ遠征軍の責任はいよいよ大なるを感じたものだが、全日程を終わって輝く戦績を残したので、彼ら同胞の喜びようは一通りではなかった。少なくともいい印象を残したものであろう。彼らが同胞の歓迎会におけるときは、それは語る人と所は異なるにしても、十人が十人とも同じような意味の感謝の言葉を送ってくれた。それはややもすれば外国人に対して卑屈になりがちな邦人二世の教育に貢献するところが大きかったということであった。またある人々は語った。『今日では国際親善は公使による時代ではない、今度の遠征軍は如実に親善に貢献してくれた』と」
(注)この日本代表のカナダ遠征が実現した裏には初代の駐カナダ日本公使徳川家正の存在なくしては語れない。後に紹介する。
③熱い地元の歓迎:「BC協会はゲーム以外にあらゆる歓待の方法を講じてくれた。役員といわず、選手といわず、ラグビー関係の多くの人々はオーナードライブによって諸所見物から宴会場への送り迎えまで、全く日本内地でも味われない歓待ぶりを示した。バンクーバー、ビクトリア両市においては各シビックディナーの催しがあり、BC州主催のバンケットなどの公式歓迎会のほか数多きミーティングが開かれた。とにかくブリティッシュ・コロンビア(BC)州あげての歓待ぶりについて、協会が設定したスケジュールには練習の時を考慮に入れてない位に歓迎会、見学等の連続。その上一ヶ月七回のゲームは選手にとってもかなりの負担だった」(慶應蹴球部六十年史から)
ところで、日本代表チームのカナダ遠征は内外に大きな反響を呼んだ。無敗という立派な記録もさることながら、ラグビー先進国の流れを汲むカナダの関係者たちの心をゆさぶったのは「フェアプレー」のスピリッツだった。おそらく一番喜んだのは日本公使徳川家正の言葉を信じて日本招待を決断したカナダ協会会長J.F. スミスだったのではないだろうか。日本協会機関誌掲載の「ラグビー史話(6)」(田尾栄一著)に、カナダ協会が日本代表チームの招待に到った秘話が詳述されている。歴史を知るうえからも貴重な史料といえるだろう。一読の価値がある。田尾栄一のペンになる秘話①とともに、カナダ遠征の日本代表チームについて、バンクーバー駐在の日本公使館領事江戸千太郎が外務大臣幣原喜重郎宛てに送った報告書の写し②を列記しておいた。
①田尾栄一の寄稿
「豪州での第一戦を行ったときの歓迎会の席上で、先生(喜多壮一郎)がのべられた御礼の言葉のうちに『学生達は旅行中3つのNOが約束されている。即ちNo drinking, No Smoking, No dancingが、それである』とのべられた。そのスピーチをきかれた列席の多くの外(国)人や在留日本人や選手達は唖然として、早大チームの厳粛な覚悟を知るに及んで驚嘆せられたとのことである。このような厳しい態度で、今までに豪州へ来征されたラグビーチームがなかっただけに、この話が新聞等で各地に伝わったとみえ、それ以後の遠征先で非常に好意をもって歓迎を受け、新聞記者や識者から、そのような心構えについて度々質問をうけられたのであった。先生はそれに答えて──古来から日本の武芸者は、その修業として、斯道の達人を距離の遠近を問わずに訪ね、自己の生命をかけて他流試合をおこない、その技術と精神を身につけた故事を話されたのであった。そして、われわれが当地を訪れたのは決して遊覧きぶんの観光旅行ではなく、当地のラグビー関係の皆様方から、本場のラグビーの技術とラグビー精神を身をもって修得するがために訪れたのである。学生達が大学の正服正帽をまとっているのも、そのためである。と、のべられたのである。
この話が総領事の徳川家正氏に伝わって非常に感激せられた。スポーツの国際試合が両国国民の親密度を高める、スポーツの外交的効果を初めて知ったという後日談がつたえられている。
徳川家正氏はその翌年に、カナダ公使として転任されたのであるが、ある会合の席上で、喜多壮一郎先生の御話や早稲田大学ラグビー部の豪州での遠征態度について語ったことが、はからずも、カナダラグビー協会の会長スミス氏(J.Fyfe Smith)に伝えられたのであった。昭和5年にカナダラグビー協会が、早稲田大学ラグビー部を、是非、カナダへ招待したいとの意向を徳川公使につたえ、さらに、その斡旋を御願いせられたのであった。
カナダラグビー協会から正式の招待状をうけた早稲田大学ラグビー部では、部の内部事情のため、やむなく、この招待を日本ラグビー協会へ移牒したのである。昭和5年の夏に、日本ラグビー協会が初めて日本代表チームを編成してカナダへ遠征し、6勝1分の好成績をえて帰朝せられたのは、以上の経過をへて実現したのであった」
②外務省への報告書
「…各選手共競技ニ当リ英国人ノ所謂『スポーツマン・シップ』ヲ遺憾ナク発揮シテ当地方人士ニ好印象ヲ与ヘ各方面ヨリ激賞ヲ受ケ就中当方面ノ英字新聞は何レモ特種トシテ大ニ其報道ニ努メタルヲ以テ日加相互了解ノ促進上及我国宣伝上利スル所勘カラサリシモノト思考セラル又翻ツテ之ヲ在留邦人側ニ対スル影響に就テ見ルニ我選手団ノ好成績及之ニ対スル好評カ邦人就中二世タル日本人少年少女ニ対シ民族的優秀性ヲ実証セル生キタル教訓ヲ与ヘタルモノニシテ今回本団遠征ノ斎シタル効果中特ニ注意スベキ所ナリトス。
右様ノ次第ナルヲ以テ本国滞在中当地邦人側ハ勿論加奈陀側ニ於テモ公私各方面ニ於テ大ニ斡旋歓待ニ努メタル処其間各選手能ク監督ノ意ヲ体シ其行動ニ就テモ非難スヘキ点ヲ見サリシ次第ニテ此種競技団ノ当方面遠征ハ利スル所多ク大ニ歓迎スヘキモノナリト思考セラル右ノ趣日本ラグビー蹴球協会会長男爵高木喜寬氏宛御伝達相煩度此段御依頼申進ス」(斎藤外務省情報部長より高木会長宛て送付してきた報告書写の後半部分から)
もちろん、日本協会では早稲田から持ち込まれたカナダ遠征がすぐに決まったわけではない。香山蕃の遺稿や日本ラグビー史の記述によると「昭和4年春以来、方法を尽くして英国(イングランド)ユニオンに交渉したが、英国側の事情は日本の要請を受け入れがたいことが判明し、この計画は一応見送りになった」とあり、形としてはカナダ遠征に切り替わったことになるわけだが、日本代表の英国遠征について日本協会のだれが、イングランド・ユニオンのだれと、どのような方法でコンタクトをとっていたのかを伝えるデータなり資料はまったくない。ただ、昭和4年といえば日本協会副会長、高木喜寬がそれまで空席となっていた日本協会初代会長に就任して間もない時期。しかも高木喜寬といえばロンドンのキングス・カレッジからセント・トーマス医科大学へ進み、卒業後はセント・トーマス病院の外科医として勤務のかたわら、同病院のラグビークラブでメンバーとしてプレーをした経験の持ち主でもある。発想なり、計画の最初の提案者がだれであるかはともかく、空席だった日本協会の初代会長就任の慶事と英国遠征計画が結びついたとしても、時期的にみてありえない計画ではなかったともいえる。
とにかくラグビー創始国への遠征は幻の計画に終わってしまったが、その流れを汲む自治領カナダへの遠征は現実のものとなった。日本協会では「数次の交渉の結果、カナダではブリティッシュ・コロンビア(BC)ラグビー協会がその衝にあたることとなり、日本の希望の滞在期間9月中の条件をいれ、そのかわり試合地を西部に限る」(日本ラグビー史)ことで合意に達した。いよいよ日本代表の選考である。
課題は最強チームの編成にあったが、同時に帰国後のラグビー界発展に貢献という副題もついてまわった。加えてOBには会社勤務という厳しい現実が存在する。往復で1ヵ月、現地滞在で1ヵ月。合わせて2ヵ月にわたる長期休暇を認める企業はまず皆無だろう。勢い編成の主力は学生中心となってくる。滞在期間を9月に限定したのも学生の夏季休暇の有効利用にあったが、協会が心配した通り早稲田OBの坂倉雄吉、京大OBの二宮普二、平生三郎(学生では御牧称児)から代表辞退の申し入れがあった。幸い辞退の動きは、学生1人を含めて4人にとどまり、チーム編成にとってはまずまずの結果といえるだろう。こうして日本協会は団長兼監督に日本協会理事香山蕃、総務(マネジャー)に同書記長川目保美を決めるとともに、選手選考試合を5月4日(神宮競技場)、5月19日(花園ラグビー場)にそれぞれ2回ずつ、計4試合の選考試合を開いて、OB6人、学生19人、総勢25人の日本代表チーム(別掲)を編成。8月1日から山中湖畔の慶応山荘で異例の強化合宿を実施するなど、初めて経験する海外遠征に備えた。
選手団一行の出発は8月17日横浜港出帆のハワイ丸。秩父宮さまからのご下賜金で謹製した日の丸の団旗とともに、多くの関係者、ファンに見送られながら午後3時、船は静かに大桟橋を後にした。目的地のバンクーバーには8月29日夜に到着。2日後の9月1日には現地のスタンレー・パーク競技場で全バンクーバーと初戦を行い、22(11−13、11−5)18のスコアで逆転勝ちするなど、計7戦して6勝1分けの好成績をみやげに10月15日未明、横浜港入港のマニラ丸で全員元気に故国の土を踏んだ。
帰国後の一行を待っていたのはカナダでの歓迎に勝るとも劣らない過密スケジュール。翌10月16日には神宮競技場に秩父宮、同妃両殿下をお迎えして紅白試合が行われた。遠征チームの総勢は25人。おそらく辞退組の4選手ら候補選手を補充したうえでの対戦だったのだろう。いまでいうなら日本代表の帰国デモンステレーションといったところ。さらに19日には大阪・花園ラグビー場で関西選抜との歓迎試合に臨み、36−3で快勝したが、なんとメーンスタンドに6000人のファンが詰めかけたという。すばらしい試合結果もあるだろう。しかしそれ以上に日本代表がカナダ遠征でやってのけた国際親善と日系一、二世への無言の励ましが、日本でも大きな反響を呼んだといえる。まさにスポーツ大使の形容にふさわしい日本代表初のカナダ遠征であった。
日本協会は1982(昭和57)年12月に日本代表選手の栄誉をたたえる「キャップ制度」を制定した(後述)。外国のナショナルチームとの対戦、いわゆるテストマッチに出場した選手の名誉をキャップという形(帽子)にあらわしたもので、その第1号の対象試合として戦前の日本代表カナダ初遠征での対BC州代表戦(1930.9.24)が適用された。キャップのナンバリング第1号はFW第1列1番の矢飼督之(慶応)。以下第2列、第3列、HB、TBと左からポジション順にいって最後は15人目のFB寺村誠一で終わるわけであるが、この対戦でのキャップ受賞者は16人。鳥羽善次郎(明治大)の負傷退場で交代選手として途中出場した鈴木秀丸(法政大)にも授与され、15プラス1となった。当時の国際ルールではたとえ負傷で試合続行が不可能となっても選手の交代は認められなかった。しかし、時のBC協会会長ティレットが鳥羽善次郎のマークだったバレットをはずして14人同士の試合続行を主張。このため監督香山蕃もやむをえず鈴木秀丸を交代選手とする異例の措置で対応。あとあとまで美談としてながく語り継がれた日加交流のエピソードのひとつである。
なお、この時代の選手交代のルールとしては、NZ協会が1932年にローカルルールとして、両チーム主将の合意を条件に負傷者の交代を認めている。
日本代表選手
【FW】
太田義一(早稲田)
矢飼督之(慶應)
根本弘道(立教)
岩下秀三郎(慶應OB)
都志悌二(明治)
三島実(京大)
増永洋一(明治)
知葉友雄(明治OB)
清水精三(慶應)
宮地秀雄(慶應OB)☆
和田志良(東大OB)
桜井凱夫(東大)
【HB】
松原健一(明治)
岩前博(京大)
萩原丈夫(慶應OB)
上田成一郎(京大)
【TB】
北野孟郎(慶應)
藤井貢(慶應)
丸山虎喜(慶応)
鳥羽善次郎(明治)
田中一郎(明治)
柯子彰(早稲田)
鈴木秀丸(法政)
【FB】
寺村誠一(東大OB)
小船伊助(早稲田)
(注)☆は主将
対戦記録
9.1 日本 22−18 バンクーバー選抜
バンクーバー
9.6 日本 22−17 バンクーバー選抜
バンクーバー
9.10 日本 27−0 メラロマ
バンクーバー
9.17 日本 16−14 ビクトリア選抜
ビクトリア
9.20 日本 19−6 ビクトリア選抜
ビクトリア
9.24★日本 3 − 3 BC州代表
バンクーバー
9.27 日本 25 − 3 BC大学
バンクーバー
(注)★はテストマッチ
【テストマッチの日本代表メンバー】
「FW」
矢飼(慶應)
岩下(慶應OB)
太田(早稲田)
三島(京大)
知葉(明治OB)
宮地(慶應OB)
和田(東大OB)
「HB」
清水(慶應)
萩原(慶應OB)
松原(明治)
「TB」
鳥羽(明治)
藤井(慶應)
柯(早稲田)
北野(慶應)
「FB」
寺村(東大OB)
(注)鳥羽の負傷退場で鈴木(法政)が交代出場。
【カナダ代表チームが来日】
カナダ代表チームが1932(昭和7)年1月に日本協会の招きで来日した。日本が初めて迎える外国のナショナルチームであるが、昨1930(昭和5)年度に実施した日本代表のカナダ遠征、そして今年度のカナダ代表来日とつづいた今回の相互訪問で、日本ラグビー界と世界との交流の門戸は大きくひらかれた。日本協会が成立してわずか4年で世界との交流である。1899(明治32)年の日本ラグビー創始から33年という長い助走期間があったことを考えると、この間に培われた歴代関係者たちの経験と努力がようやく花開いたともいえるだろう。同時にカナダ代表の初来日は日本協会の基盤が定まったひとつの象徴でもあり、戦前の黄金時代到来への幕開けだった。
日本代表のカナダ遠征にあたっては、試合地と対戦チームを太平洋岸のBC州に限定する取り決めがあった。このため広くカナダ全土を網羅した代表選手なり、チームとの接触はなかったが、その点、今回の来日チームは主力のBC州選手に加えて中部、東部などカナダ協会を構成する6州から選抜された最強チーム。これに対し日本では協会選抜チームとして日本代表とのテストマッチ(東京、大阪)2試合、関東代表との1試合のほか、大学単独チームとして早稲田、同志社、京都大、明治の東西4大学が対戦することになったが、選考の基準は関東、関西の上位各2チームという単純明快なものだった。
このためシーズン3位に転落した日本のラグビー創始校、慶應が国内初の国際試合からはずれることになったが、実力主義という立場からいえば当然の結果といえるだろう。むしろ話題としては日本代表の方針転換を指摘したい。前年度のカナダ遠征時はセブンFWだった日本代表が、今回はエイトFWでカナダ代表を迎え撃つという。この思いきった日本代表の方針転換は選手の選考にも色濃く投影されている。テストマッチ第1、2戦に選ばれたメンバー15人のうち、セブンFW採用のチームからは早稲田3、慶應1の4人だけ。残る11人は明治7、京大4(OB2人を含む)とエイトFW採用のチームからで、そのうち7人までがFWに集中している。FWとHBは明治、京大連合、バックスのTBラインは京、慶、早の混成ライン、そしてFBは明治で固定という編成となった。これと対照的なのが関東代表である。FWのシステムはセブン。選手選考の配分も明治と慶應がそれぞれ5、早稲田4、東1人(OB)で、システム別にみればセブン派9、エイト派6人とセブン優勢の編成となっている。日本代表、関東代表の方針が真っ二つに別れた理由はともかく、この両協会のチーム編成からは、それまで水面下でくすぶりつづけていた「セブンFW」対「エイトFW」の論争が、一気に表面化したとも受け取れるほど、それぞれ個性的なメンバー編成だったといえるだろう。
ところで、カナダ代表との対戦ではこの年度の大学チャンピオン明治をはじめ早稲田、同志社、京都大の学生チームと関東代表はいずれも敗退。ナショナルチームとの格の違いをみせつけられたが、それだけにテストマッチで2勝した日本代表の強さが際立つシリーズでもあった。なかでもエキサイティングな試合となったのは大阪・花園ラグビー場での第1テストマッチ。試合は8−6でカナダ代表リードのままノーサイドかと思われた5分前。北野の逆転トライが生まれて日本代表が劇的な勝利をつかんだ。つづく第2テストはグラウンドを東京・神宮競技場に移した最終戦。日本ラグビー史は「歴戦の労も加わったか…」と、カナダの敗戦を控えめに表現しているが、38−5の点差は予想外の大勝といってもいいだろう。これでカナダとのテストマッチは日本の2勝となったが、前年度の遠征で相手はBC州代表ながら引き分けに終わっていることを考えると、日本代表の成長がはっきり確認できたといえると同時にカナダとの交流に際し、日本代表を学生中心のチーム編成で臨んだ日本協会の方針に誤りのなかったことが立証されたともいえる。
「来日カナダ代表の対戦成績(1932年1~2月)」
月・日 対戦チーム スコア 場所
1·20 早稲田 13−29 カナダ代表 神宮競技場
1·24 同志社 3−30 カナダ代表 花園
1·27 京大 5−41 カナダ代表 花園
1·31 日本代表 9−8 カナダ代表 花園
2·4 明治 8−21 カナダ代表 神宮競技場
2·7 関東代表 6−14 カナダ代表 神宮競技場
2·11 日本代表 38−5 カナダ代表 神宮競技場