《豪州&NZ大学選抜が相次いで来日》


【豪州大学選抜(AURFC)1934·1·24~2·19】
 南半球のオーストラリアから大学選抜(AURFC)チームが初めて日本の土を踏んだ。1934(昭和9)年1月24日のことである。戦前の来日チームとしては明治大学の上海遠征(1927年12月)が縁となって、約1ヵ月後の1928(昭和3年)1月にやってきた上海駐屯ウェールズ連隊をもって嚆矢とする。以来、天津駐屯フランス軍(1929年2月)、カナダ代表(1932年1月)とつづいてAURFCは4番目であるが、シビリアンであり、学生ながら国を代表するラグビーチームとしては、カナダのナショナルチームに次いで2ヵ国目の来日ということになる。オーストラリアといえば当時は、カナダニュージーランド(NZ)と同様、ラグビー創始国であり宗主国英国の自治領。当然ラグビーに関しても英本国との交流が古くからあったのはいうまでもない。日本のラグビー界にとって大きな刺激となったわけである。
 ところで、日本ラグビー史によると、今回のAURFC来日にあたっては事前折衝の段階で紆余曲折があったようだが、最終的には日本協会がシドニー駐在の日本領事館に勤務していた東大OB太田三郎に豪州大学チーム招待の交渉を依頼。太田三郎がニューサウスウェールズ(NSW)協会のセクレタリー、R.A.O.マーチンと話し合って合意に達したという。豪州側の交渉窓口となったマーチンとは、早稲田の豪州遠征にも親身になって世話をしてくれた恩人とか。日本協会としてはシドニー大学の招待が当初の計画だったが、豪州側の意向で豪州大学選抜(AURFC)に変更された。団長兼監督にはマーチンがみずから就任。早稲田の豪州遠征時にNSW選抜、シドニー大学のFBとして対戦したR.ウェストフィールドが主将に選ばれている。
 来日チームの編成はNSWはじめクイーンズランド、ビクトリア、西豪州協会などから選抜された23人。なかでも西豪州のパース大学から選ばれた選手は、シドニーまで行くのに列車で6日、船なら9日もかかるという、日本人の感覚ではちょっと想像もつかない、いかにも豪州大陸らしいスケールの大きい話であり、またおおがかりなチーム編成ではあった。しかもシドニー港を12月30日に出発して長崎入港が1月24日。それから列車で神戸に向かう陸路の旅が待っている。早稲田六十年史が豪州遠征の項で「…往路からの緊張、試合の疲労は、復路になって一時に解放され、無為の航海が続くと、誰しも精神的、肉体的に異常をきたすものだ…」と記していたのを思い出す一方で、日本ラグビー史は遠征チームを称えている。「早稲田の場合は1等船客の待遇をうけたのにくらべ、また一段と悪条件(2等船客)であったのだが、これにつづくニュージーランド大学選抜(NZU)の来日といい、あれだけ変化の多い大旅行にもかかわらず、あれだけの戦績を示したことは、外(国)人選手の体力の強靭さに感嘆せざるを得ない」──と。
 スポーツの海外遠征にはホームとアウェーで、選手にかかる負担に軽重のあることを、日本のラグビー関係者たちも日本代表カナダ遠征、早稲田ラグビーの豪州遠征で知ることができた。交通機関の発達した現代、それも国内での移動ならともかく、往路の船旅だけで26日間を、条件の落ちる2等船室での遠征ともなれば、これだけで心身の疲労はたいへんなものだったろう。日本ラグビー史の執筆者、本領信次郎はその過酷な豪州遠征を主将として経験した人物である。「…体力の強靭さに感嘆せざるを得ない」と日本ラグビー史に刻んだ心情に思いを致すとき、その記述が単なる外交辞令ではなく、心の奥から迸り出た体験者だけが知る声であり、記述といえるだろう。
 AURFCの日本上陸第1戦は1月28日の関西代表戦(甲子園南)。真夏の南半球から冬真っ盛りの気候の変化に戸惑いながらも23−15でまずまず勝利を飾って翌29日の列車で東上してきた。東京では4試合。2月1日から3日間隔で慶應、明治、早稲田と大学チームを相手に神宮競技場で対戦したが、慶應戦は8−16、明治戦は8−34と連敗。ようやく早稲田戦で21−6、続く日本代表との第1テストにも18−8で連勝し、ここまでの対戦成績でようやく3勝2敗と勝ち越した。AURFCは2連敗の後の2連勝。それもこの年度の大学チャンピオン早稲田日本代表からの勝利でラグビー先進国の面目を保つことができたともいえるが、AURFC変身の理由をひとつあげるとするなら、それは日本側の低い姿勢とパックの固いスクラムに苦しんだAURFCが、早稲田戦から「3−4−1」のスクラムフォーメーションをセブンFWに切り替えることで、スクラムサイドの守りを強化した戦略の転換といえるだろう。しかし、帰国を前にした再度の関西では全同志社には23−11で勝ったものの、日本代表との第2テストは接戦のすえ9−14で惜敗。トータルで4勝3敗の成績をみやげに2月19日長崎港出帆の北野丸で故国へ向け離日した。
 なお、日本側は慶應、早稲田日本代表(2試合)がセブンFW。関西代表、明治、全同志社はエイトFWを採用。
日本側の対AURFC戦メンバー◇
日本側の対AURFC戦メンバー表

 日本側の3勝について「勝つべくして勝ったのであり、日本の学生ラグビーが、国際水準に照らしても、いささかの遜色のない実力を備えてきたことを証明した…」と日本ラグビー史は激賞する一方で、早稲田戦の笛を吹いたR.A.O. マーチン(AURFC団長兼監督)のレフリングについて「従来看(み)のがされていた反則を、明確にとった点で模範を示した。密集部隊を遠く離れた所で、アドバンテージ・ラインを越えてオフ・サイドの位置に出ているT・B・のプレーヤーにぺナルチーを課したのは、この時のマーチンの笛が最初だっただろう」とも記している。そのほか、日豪間にはタックル後のボールの処置、あるいはインターフェアなどに対するルール解釈で見解が分かれていたようだが、マーチンはルール打ち合わせのあと、「自分は日本人より英語の解釈が確実であり、少なくとも豪州、NZ、南ア、英本国もこの点では同様に慣習的にも行っている。日本の解釈は独自のものだ」と橋本寿三郎に個人的意見をもらしたという。
ニュージーランド大学選抜(NZU)1936·1·22~2·17】
 ニュージーランド大学選抜(NZU)が1936(昭和11)年1月22日長崎入港の北野丸で日本にやってきた。戦前の日本が迎える3カ国目の本格的な外国チームであるが、先に来日したカナダBC州代表、豪州のAURFCに比べると、NZの国際記録、あるいは宗主国英国や豪州などとの交流実績からみて、たとえ大学選抜といえどもラグビーの強さという点では1ランク上であることは日本各チームとの対戦前から十分予測された。ギネスブックのラグビー記録版によると、NZラグビーの国際交流は1884(明治17)年の豪州NSW州への遠征が歴史のはじまりとなっているが、1936年度までの両国の対戦成績は165試合対戦して、NZの133勝25敗7分け。この数字を見る限り、少なくとも彼らの交流開始からNZUが来日する1936(昭和11)年までの半世紀は、NZが圧倒的に強かったといえるだろう。ただギネスブックの記録はナショナルチームのもの。したがって数字がそのまま今回来日のNZUにあてはまるとはいえないが、レベル的に日本の大学チームと比較するとき「ビジターに一日の長あり」と考えるのが常識というものである。
 黒衣の使者、NZUの一行は団長であり監督のマーチン・スミスと選手24人。オタゴ、オークランド、カンタベリー、ビクトリアの4大学から選ばれた精鋭たちである。日本ラグビー史によると「FBブッシュは豪州のウエストフィールドより上手い選手だし、第2 FEのフックスもすばらしい選手…」という前評判が豪州のR.A.O. マーチンから伝わっていたとか。迎える日本側もOB混成の協会選抜チームは初戦の関西代表だけ。後は関西学生代表と日本学生代表の2チームを加えた大学チーム中心のスケジュールを組んでいるが、日本代表は別としても、当時の日本では一般的に大学チームが最強であり、また人気もあったということのほか、招待の条件としてNZ側に大学チームを希望したことなどがその主な理由としてあげられる。
 豪州のときもそうであったが、今回のNZUも長崎に上陸、そして復路も長崎港から離日という日程にそって第1戦は甲子園南運動場での関西代表戦。前述したように日本協会の方針はNZUの対戦相手は大学チームとしながらも、関西から大学単独チームが選ばれなかったのは「関西は沈滞の隙間におちこんで、同志社も京大も、とうてい単独として立ち向かう力ありと認められなかった…」(日本ラグビー史)のがその最大の理由。その関西代表にしても朝鮮鉄道局から秋子、太田らOB 8人を補強し前半こそ0−8と持ちこたえたが、後半に大量点を奪われる完敗だった。しかも、関西入りした直後の打ち合わせでNZUが「40分ハーフ」を要求。日本側の35分説と激しく対立したが、結局は日本が折れてNZUのいう「40分ハーフ」で行われることになった。日本のラグビー界がNZUから最初に学んだ国際慣例とでもいうか。
 関西代表を一蹴したNZUは東上後の第1戦を慶應と対戦(神宮競技場)した。スコアはNZU23(9−3、14−3)6慶應。NZUのエイトFWに対して慶應のセブンFWは善戦したともいえるが、橋本寿三郎はその理由を慶應六十年史で次のように解説している。「フロントローの腰が高く、之に次ぐセカンドローが極端に低く組むので押しの一致を得る事が難しく、彼らの重量を十分スクラムに利用して居らない様に見受けられたが、何にしても外(国)人にとって、日本のスクラムは相手し難いもので、今後も日本チームは重量の点で外(国)人スクラムに劣って居っても、実際の効果はさ程危惧するに足らないものがあるといふ一事は日本チームの特徴として考慮さるべき点であると同時に心強い感じがする。…」──と。
「NZUと対戦した日本側チーム・メンバー」
NZUと対戦した日本側チーム・メンバー表

 同時に橋本寿三郎は「このチームの特色は球離れのよい事とバックアップ(特に防御の際)の良い事だ。タッチに向かって扇形に開いて来るFWの防御網は流石に固い。…このチームが従来の外(国)人チームに比して、ラグビー知識を蔵して居る一端が窺われる。一見容易に抜けそうであり、事実抜いてみてもトライを得る事は容易な技ではない。どうも勝てそうであるが容易に勝ち難いチームと思われる…」と称えてもいる。
 このあと、明治、早稲田日本学生が神宮競技場で対戦。3試合すべてスコア的にも、また内容的にも競り合うが、終わってみれば負けていたという結果の連続だった。まさに橋本寿三郎分析の通り「勝てそうで勝てないチーム」という印象を関東の関係者たちに残して復路の旅についたNZU。途中、関西に途中下車して関西学生を23−8と6勝を記録し、最終戦を再び日本学生と対戦した。スコアは9−9のタイ。日本にとっては全敗を免れる貴重な引き分けといいたいところではあるが、日本学生の9点はすべてPGによる得点でトライは1本もなかった。日本ラグビー史はNZUシリーズの総括として「『ゆさぶり』の亜流としてのいたずらな横流れのパスと横走りの無力を端的に指摘している」という帰国に際してのパーキンス主将と、マーチン・スミス監督の言葉をあげている。
 「日本対NZU対戦成績」
①1・26 関西代表  3−31 NZU 南甲子園
②1・30 慶應義塾  6−23 NZU 神宮競技場
③2・2  明治   11−13 NZU 神宮競技場
④2・6  早稲田  17−22 NZU 神宮競技場
⑤2・9  日本学生  8−16 NZU 神宮競技場
⑥2・11 関西学生  8−23 NZU 花園
⑦2・16 日本学生  9−9  NZU 花園