関東大学ラグビーに動乱のときが突然やってきた。それは常勝慶應が王座から滑り落ちた1928(昭和3)年度のこと。それまで個別に定期戦を結んでいた関東の諸大学が話し合いで5大学リーグを結成することになった。参加校は慶應、
早稲田、
東大、明治、立教の5校。ラグビー界では画期的ともいえる対戦形式の制度化ではあったが、なぜかラグビーの歴史を綴る年史などには発足の年度、参加5大学名の記述があるだけ。成立にいたった経緯とか、趣旨、目的、提唱者…といった詳細を伝える史料がまったくない。やはりラグビー創始このかた、定期戦を第一義としてきた不文律の手前、制度について多くを語れなかったのかもしれない。そういえば慶應百年史は「…定期戦を兼ねたまま5大学対抗戦に移行…」と、それぞれの対戦はいぜんとして定期戦であることを明確に記している。
当時の関東協会が5大学リーグ戦とどう向き合ったのかはともかく、1933(昭和8)年には、新たに東京商大(現一橋大)と法政が加わって7大学リーグと発展していく。リーグ結成の提唱者がだれであれ、このように参加校が増えていくということは、対戦方式の制度化が正解だったということでもあり、時代の要請だったとも考えられる。早慶定期戦を機に関東の大学ラグビー界は、スポーツジャーナリズムにも成長株として受け入れられた。報道側としては紙面作成にあたって、だれもが納得できる優勝校でなければならない。例えば1927(昭和2)年度の
京大は関西で全勝(任意の対戦相手)。暮から正月にかけての東西対抗でも
東大、慶應、
早稲田を破って全国制覇達成というビッグタイトルを獲得した。
確かに
京大は東西で無敗の記録を残してはいるが、関東で対戦したのは定期戦を結んでいる相手だけ。明治、立教とは対戦していないし、また
早稲田も関東での大学の対戦相手は慶應、明治、
東大の3校だけ。そのうち
東大に敗れている。
日本ラグビー史は「実力的判定から、
早大は関東代表と認められ、関西代表の
京大との試合は、全国覇者決定戦の名が与えられた。…」と、話し合いで
早稲田が関東代表となった理由を記しているが、認定者がだれであるかは触れていない。このように当時の定期戦なり、東西定期戦の在り方を解きほぐしていくと、その翌1928(昭和3)年度に5大学リーグが結成されたということは、やはりメディアなど協会の外部、あるいは内部の一部関係者からリーグ戦組織の制度化を提唱する声が起こったとみるべきだろう。その点、関西のほうは
京大、同志社を中心に関学、関大、
立命館、
大商大、神商大などの間で試合が行われていたようだが、少なくとも戦前は任意の対戦に終始し、関東の7大学リーグに対比する組織結成の動きはなかったようである。