難攻不落の城が落ちた。平穏だった関東の大学ラグビー界は一転して百花繚乱。後進の諸大学にも頂点への道が大きく拓けた。もちろん、その先頭をきったのは前述の通り殊勲の
早稲田ではあったが、西の雄
京大との競り合いに負けて全国制覇のタイトルをさらわれてしまった。次の年度には捲土重来の慶應が
京大の挑戦者として浮上したがこれも失敗。そして新しい星の登場となった。1923(大正12)年創立の立教ラグビーであったが、ここでまた定期戦の壁に全国制覇への夢を断ち切られてしまう。関西で3年連続全勝を記録した
京大エイトFWの押しと、バックスのパス、パントを織り交ぜた変幻自在の速攻はすでに定評のあるところ。対する挑戦者的立場の立教は、5人のTBラインという特異なフォーメーションと、FWのマスドリブル戦法で関東を制した個性豊かなフレッシュ軍団である。もし実現していればと…75年を経た21世紀のいまでもラグビー愛好者の想像力をかきたてる魅力に満ちた対決となったことだろう。両校にとっては、まさに千載一遇の好機を逸したという表現が最も似つかわしいが、やはり大学の校庭ラグビーを脱して神宮競技場に万余のファンが駈けつける昭和の時代を迎えても、まだ発祥当時の「みずからプレーをエンジョイするのがラグビー」というファン不在の考え方、在り方がどこかに残っていたのだろう。その点、関東大学の5大学リーグから7大学リーグへの進展は、時代の先取りというか、未来を見つめた組織の結成と大きく評価できる。
5大学リーグの結成とともに初代(1928年度)、第3代(1930年度)と慶應が王座についた。とくに2度目の優勝時は関西の全勝校同志社を破って全国制覇のタイトルを4年ぶりに奪回、ラグビー創始校としての面目を保った。1930(昭和5)年といえば
日本代表の
カナダ遠征の年。慶應百年史には「強い慶應義塾復活の感すらあった。これは
日本ラグビー蹴球協会が初めて海外に派遣した
カナダ遠征
日本代表チームのメンバー編成にも如実に映し出されている。慶應義塾からOB(3人)、学生(5人)合わせて大量8人がメンバーに選ばれたのだ。この年度の慶應の強さがこのあたりにもうかがえるだろう」と記しているが、皮肉にもこの年度を最後に慶應の時代は完全に去り、関東というより
日本の大学ラグビー界は新時代を迎えることとなった。栄光の後の翌1931(昭和6)年度は明治、
早稲田に敗れて3位転落。以後の慶應は戦前最後の年度となった1942(昭和17)年秋の2シーズン制後期優勝まで3位からの浮上はなかった。それまでの栄光があまりにも花やかで、長期にわたったことが慶應の沈滞をいっそう際立たせたようにもみてとれる。