《早明の真髄は横と縦の「ゆさぶり」》


早稲田と横のゆさぶり】
 早稲田ラグビーの豪州遠征は世間を「あっ」といわせた。ラグビーファンならずとも帰国後の早稲田に「何か」を期待するのは当然のことといえる。そして早稲田は期待にたがわずでっかいことをやってのけた。「打倒慶應」の一番乗りである。ラグビー創始校に替わる新たなヒーローの誕生は、確かに大学ラグビー界の新時代到来を告げる号砲ではあったが、残念ながら主役の座についたのは、京洛の雄京大であり、関東では伏兵ともいうべき立教、そして慶應の短期復活であった。勝負の世界ではよくあることだが、常勝の王者が倒れた後は群雄割拠の時代が数年つづく。「歴史は繰り返す」というが、そのよい例が身近にある。1979(昭和54)年度から1995(平成7)年度にかけての日本選手権で、ともに7連覇の偉業を達成した新日鉄釜石神戸製鋼。最初に7連覇を飾った新日鉄が倒れて次の神戸製鋼時代の到来まで3年間の間隙が生じている。この間に覇者となったのは慶應であり、トヨタ自動車であり、そして早稲田であった。この例えをみてもらえば戦前の覇者交代劇でも同じ現象があったことが容易に想像していただけるとおもうが、さらに一つ付加するとすれば、戦前のそれは後継の覇者が「早稲田=明治」の拮抗、言葉を変えれば「横対縦のゆさぶり」、あるいは「スピード対パワー」と、どこまでも対照的なカラーの激突で、交互に王座を手にして譲らなかった点にある。
 まず早稲田の「ゆさぶり」について歴史を追ってみよう。その原点が豪州遠征にあることは間違いない。早稲田ラグビー六十年史にも「フォワードとバックスが一体となっての総合的プレーに欠けていた点を反省。さらにオープンプレーに撤し、球を生かすことを見習い、後に、ゆさぶり戦法といわれるようになった展開の仕方を学びとったことは収穫だった」と明確に記されている。要するに豪州遠征での5試合で「ゆさぶり」という新しい戦法を修得したのではなく、ただ頭脳だけでの理解にすぎなかったわけである。それが帰国早々のシーズンで、すべての日本チームが最大の目標とした不敗の慶應を豪州帰りの早稲田が倒した。世間が早稲田ラグビーを評価し、覇者交代の筆頭に早稲田を期待したとしても無理ないことといえるだろう。
 しかし、早稲田の関係者たちが早慶戦の結果を冷めた目でとらえていたことは前述した。首脳陣が頭で考え、描いた戦術なり、戦法が直ちにグラウンドで実現できるほどラグビーというスポーツは底が浅くない。帰国直後の年度こそ関東の王者と認定はされたものの、全国制覇の夢を京大にさらわれ、翌年度に結成された5大学リーグでも期待を裏切りつづけた。早稲田ラグビー六十年史は昭和3(1928)年度から6(1931)年度までの4年間を「雌伏時代」と位置付けている。ではこの間の早稲田ラグビーはただ手を拱いていたのだろうか。いや、そうではない。「不振の時代」と年史が決め付ける昭和5(1930)年度ではあるが、早稲田ラグビー再生への手を着々と打っている。まず新監督に馬場英吉を据えたこと。次いで「全員の力を結集しオープン戦に撤することで球を素早くバックスに回すことを第一義とし、残る者もこれを追ってバックスと一体になって第2次、第3次と間断なく攻撃を仕掛ける、いわば後に早稲田のお家芸となった『ゆさぶり』戦法の素型である」(六十年史)という指導方針の明確化と徹底化を打ち出した。模索のつづいた豪州スタイルから早稲田流ラグビーへの転換に、ここでようやく結論が出たということ。広義に解釈すれば、完成とまではいかないとしても、後に代名詞ともなった「ゆさぶり戦法」─すなわち豪州仕込みの早稲田ラグビーは、この年度をもって発進したともいえるだろう。
 もちろん早稲田ラグビー六十年史が「ゆさぶり戦法」の完成を認定しているのは、それから2年後の昭和7(1932)年度。馬場英吉から監督の座を受け継いだ西尾重喜の初年度のことである。「…馬場時代、この戦法(ゆさぶり戦法)はただ左右にゆさぶることから始められたのを今年からセンターTBは無理せず早く、ウイングTBに球を回す。FWは同時にウイングTBに走り、再び球を出して第2次攻撃をかける。これを反復する間に相手ディフェンスは必ず崩れるから、これを狙えば得点出きるというものであった。幸いに卒業したのは太田、大西の2名だけ前後の呼吸はぴたりと合い、寸分の隙もないチームに育ったのが、『ゆさぶり』を成功させた要因である」と同六十年史は断じている。
 「ゆさぶり戦法」の完成とともに早稲田は初の全国制覇を達成。さらに翌昭和8(1933)年度と連覇したあと、昭和11(1936)、12(1937)年度と2度目の2連覇を重ねたが、目指す3連覇目はいずれも明治の重量FWに阻まれている。次に早稲田が2連覇をはたしたのは昭和16(1941)年度と太平洋戦争の激化で変則2シーズン制となった翌17(1942)年度春季の2シーズンが戦前の最後。このときも3連覇目の秋季優勝を慶應に阻まれて成らなかった。ライバルとなった明治が昭和13(1938)、14(1939)、15(1940)年度と3連覇を達成しているだけに、三度の好機をつかみながらそのすべてを失した早稲田側の無念さには、想像を絶するものがあったことだろう。
【明治と重量FWの縦攻撃】
 早稲田と明治両校のラグビーがともに「打倒慶應」という共通の目標を持ちながら、対照的なカラーのチームであることは周知の事実だが、その起点は…となると、創部に携わった先人たちの発想と周囲の環境へと遡っていく。早稲田の創部が1918(大正7)年に対し、明治のそれは1923(大正12)年となっている。いまここで文章にすれば「6年の開きなんて…」となるのだろうが、両校がラグビーを始めたころの環境には決定的な違いがあった。早稲田ラグビーがスタートした1918(大正7)年の東京といえば、創始校の慶應義塾がただ1校あるだけ。ようやく早稲田にラグビー部が誕生したといっても、やっと2校がそろったというのが当時の状勢である。勢い早稲田ラグビーの先駆者たちが創始校に習ってセブンFWを採用したとしても不思議なことではない。
 しかし、6年という歳月の経過は東京の大学群にラグビー部創設のブームを起こしていた。なかでも顕著な例として特記するなら1922(大正11)年に行われた第1回早慶ラグビー定期戦の前後といえるだろう。まず、その前年の1921(大正10)年に東大ラグビー部が官立の大学としては初めて成立。早慶戦発足の年度には東京商大、1年後の1923(大正12)年には明治、立教、そして2年おいた1925(大正14)年には法政ラグビーが名乗りをあげている。日本ラグビーの創始以来、長くつづいた慶應の孤立時代がまるでうそいつわりでは…と疑いたくなるような突然変異の時代到来といえるが、ここで指摘しなければならないのが、東大、明治の「脱慶應セブン」だった。ともに「慶應と同じことをしていては、何時まで経っても慶應を超えることができない」という両校創設者の発想が「エイトFW」を生みだし、明治でいうならこの信念が後に重量FWの縦攻撃あるいは縦のゆさぶりへと進化していったということである。いうなれば「打倒慶應」の志は早も明も同じ。しかし「横のゆさぶり」と「縦のゆさぶり」に象徴されるように、両校ラグビーの歩む方向は創部の時点からすでに大きく違っていたということである。
 ところで、早稲田の「横のゆさぶり」が定着するまで時を要したように、明治の「縦のゆさぶり」も、戦術の基本として固まったのは、全国制覇を初めて達成した1931(昭和6)年度のことである。1963(昭和63)年10月に発刊された明治のラグビー部史は「優勝の原動力となったのは『縦のゆさぶり』であった。強力なFW陣を軸に、縦攻撃によって防御を崩し、圧倒的な連勝を続けた…」と紹介している。この部史に「縦のゆさぶり」という表現が使われたのは、この年度が最初のこと。さらに同部史には「…この戦法は従来から踏襲していたが、バックスの陣容もそろい、直線的な突破に、機をみて展開する『縦攻撃』に抜群の威力を発揮した。戦車FWを軸とした明治型縦のユサブリを完成させていた…」とも記されている。
 北島忠治が監督就任3年目の集大成ともいえるが、やはりその真髄は重量FWのスクラムの押し、密集での縦への突破力を最大限生かしたうえでのオープン展開だろう。もちろん、相手のゴール前に攻め込んだときは、スクラムトライをねらうFW単独の攻撃もあっただろうが、明治の「縦のゆさぶり」とは、1次、2次、3次…とFWのパワーと突破力でボールを縦に持ち込みながら、最終的にはオープン展開で相手ゴールを陥れる独特の攻撃がその真髄。その点、早稲田の「横のゆさぶり」は前述したようにスクラム、密集からバックスにボールを展開。これにFWがフォローして2次、3次とスピードで攻撃を仕掛けていく。ただ、この攻め方はともに基本的なもの。1931(昭和6)年に幕が開いた早明拮抗の黄金時代は、1942(昭和17)年春まで12シーズンつづいたが、どちらかの連覇が途切れる度に、両校はそれぞれ信条とする基本攻撃に部分修正を加えて覇権奪回を成功させてきた。あくなき研究心とエネルギーの結集は、また創造力の戦いでもあり、早明両校のラグビーをハイレベルへと押し上げ、そして一時代を構築させたすべてといえるだろう。