日本ではルールの改正が1938(昭和13)、39(昭和14)年度と2年続けて行われた。英国プレイフェアのラグビーマニュアルによると、IRB(国際ラグビー評議会)は1937(昭和12)〜38(昭和13)年度に大幅なルールの改正を行っており、その改正案が1シーズン遅れで
日本協会にも届いたということだろう。改正はタックル、スクラメージ、ペナルティートライ、ペナルティーキック…などなど。ルール第2条にはじまり第35条に至る計15ヵ条という膨大なものであったが、明治とともに早明時代を演出する一方の雄、
早稲田のセブンFWにとっては、極めて厳しい改正でもあった。
早稲田ラグビー六十年史は1939年度の項で「エイトFWへの模索」と題して、今回のルール改正のポイントと、それによる
早稲田ラグビーへの影響、「とくに明治戦を想定して分析した場合…」という断りつきで取上げている。部分引用をさせてもらった。
主たる改正点として①オープンプレーを目途としてスクラムサイドの反則を厳重にする。②スクラムを組むポイントを厳重に守る。③ラインアウトの場合、ボールを投げ入れる権利を有する側の要求によって、タッチの地点よりタッチラインに直角線上10ヤードの地点でスクラムに変更することができる──の3点をあげているが、「②の条項を除いて、必ずしも有利ではない」と、表現はソフトながらも、①と③の改正点は
早稲田にとって不利との判断を下している。
そのうえで同年史は①の改正点の影響について「
早稲田のセブンシステムの特長の一つとして、スクラムサイド周辺における完璧なる防御網によって、そのポイントにおいて如何なる悪条件下にあっても、第二次攻撃を綿密なる計画のもとに成功させる秘密技術が秘められていた。従来はオフサイドの場合でも、直ちにオンサイドの位置に戻れば反則をとられなかったのであるがこの年から厳重にとることになったのでFWが劣勢にある
早稲田セブンにとっては相当神経を使わねばならなかった」と解説。また③のそれについても「やたらに明治がスクラムを要求してくる場合は
早稲田にとって不利であることは否めないことであった。前年度のスクラムへのボールのスピードの規制と共にこのルール改正はラグビーの革命につながりつつあった」という認識まで記している。
しかしながら
早稲田は①草創以来のセブンシステムに対する技術と伝統を大転換することになり、その変革には大きな勇気が必要である ②この年度のFWには主将山地を先頭に豊島、太田垣、大蔵ら大型の優秀な選手を擁しているので明治のエイトFWに対抗し得る──との理由から、セブンFWで明治との対決に臨んだが、結果は完敗。このシーズン残された東西対抗で試験的にエイトFWへ転換が行われたあと、翌1940(昭和15)年度からエイトシステム採用が正式に決まった。昭和年代を迎えて数々の栄光と苦渋をその歴史に刻んできたセブンシステムとついに決別。
早稲田ラグビーはエイトFWという新しい装いで早明争覇の後半戦へと臨むことになったわけである。
この
早稲田FWのエイト転向とともに、昭和年代の伝説として語り継がれてきたのが明治ラグビーのダブリン・システムである。1934(昭和9)年度、明治は関東で7大学リーグを制しながら、正月の東西対抗で関西の覇者
京大に敗れて全国制覇の夢を砕かれた。この年の12月、明治は2度目の上海遠征を行い、3戦全勝はしたものの暮れも大詰めの12月30日に帰国するという強行日程にも問題があったのだろうが、不覚の1敗にはかわりない。明治ラグビーが創部以来のエイトシステムからセブンFWのダブリンシステムに切り替えたのは、その翌1935(昭和10)年度のシーズンである。この話題のシステム採用は7大学リーグで
早稲田に3連勝、東西対抗でも
京大に雪辱して全国制覇のビッグタイトル奪回を明治にもたらした。明治のラグビー部史はこの年度の成功を「…数年来チームに培っていたダブリン・システムを採る奇襲ともいえる戦法で、フィフティーンを蘇生させ、勝利をかちとった数多い優勝のなかでも記念すべきシーズンであった」と称賛しているが、この記述で注目しなければならないのは冒頭の「数年来培っていた…」というくだりである。昔流にいえば「伝家の宝刀」を抜いたということになるのだろう。
明治ラグビーがダブリン・システムの研究にとりかかったのは、北島忠治が主将になった1928(昭和3)年春の練習というから驚きだ。明治ラグビーの部史には「…今春(1926=大正15=年)英米留学から帰朝した春日井薫助教授を後任部長に迎えた。春日井部長は英国に滞在中ラグビーに興味を持ち、帰国後も専門書を取り寄せ新知識を部員に与え、よきアドバイザーでもあった。後年ダブリン・システム(セブン・エースの起用)の研究を実らせ、昭和10年度のシーズン劣勢を予想された早明戦で明治に奇跡的な勝利をもたらす素地を作ってくれた恩人…」とあり、またこのシステムの運用にぴったりの人材に恵まれたことも成功の大きな要因といえるだろう。その人材とはユーティリティー・プレーヤーといわれ、天才と称された笠原恒彦である。
明治流のダブリン・システムを簡単に説明しよう。まずFWは3・2・2のセブン。そしてHB、TB、FBのバックスも慶應型のセブンシステムや明治本来のエイトFW時とまったく変わりないが、これらの従来型と大きく異なるのは、セブンFWで浮いた一人がまったくフリーな立場で攻守に、あるいはバックスの全ポジションに出没する点にある。笠原恒彦はいう。「名称はセブン・エース。定位置としては、多くの場合、バックスラインの背後にいるが、FBからハーフまでの全ポジションを随所に応援し、フィールド中を攻守にわたってカバーする。セブンエースは、他のどのポジションをも交代できる攻守の技術を持ち、ラグビープレーに精通したプレーヤーであることが望ましい」──と。(明治ラグビー部史から要旨)
ただ、明治がダブリン・システムを採用したのは3シーズンだけ。1938(昭和13)年には創部当時からのエイトFWに戻っているが、ラグビー部史には「大岡主将ほか岡、江崎、山中らを学窓から送ったが、補充には豊富な部員層を持っていた。…FWの持ち駒を生かしたエイトFW方針が早くに決められた」とあり、ルール改正とは関係のないエイトFWへの復帰といえるだろう。いずれにしても翌年のルール改正とともに、明治FWのエイトへの回帰が
早稲田のエイト転向を早め、後日ではあるが、慶應に伝統のセブンシステムを放棄させる遠因ともなった。
この結果、戦前の最後までセブンFWを貫き通したチームは皆無。おもしろいといったら語弊があるが、関西の名門同志社が1931(昭和6)年度の東西対抗で立教開発の5人制TBラインを採用。早、明、慶の関東ビッグ・3に挑戦したものの、いずれも不発に終わり、翌1932(昭和7)年度にはエイトFWへ転向。そして1935(昭和10)年度には再びセブンシステムに復帰したが、大幅なルール改正のあった翌1940(昭和15)年度にはまたまたエイトFWへと転換している。このようなFWシステムの思考錯誤は同志社だけではない。関東でも5人制TBの宗家ともいうべき立教が1935(昭和10)、36(昭和11)年とエイトFWを採用したあと、1937(昭和12)年度は再びセブン、その翌年度はエイトと揺れ動いたあと、1939(昭和14)年度から1943(昭和18)年の慶立戦まで2シーズン毎にセブンとエイトFWを繰り返している。
これはFWのシステム変更とは関係ないが、1936(昭和11)年1月に来日したNZUの2FEシステムがヒントになったのだろう。慶應が翌1936(昭和11)年度の早慶、慶東の2試合に2FE制を試みているが、
東大戦では成功したものの、
早稲田には通用せず、正月の東西対抗では本来のローバー制に戻っている。
なお、1935(昭和10)年度の対戦から早明戦が国際試合レベルの40分ハーフ制となったことを付記しておく。