《戦前の関東大学は慶應の復活とともに終焉へ》


 「始め有るものは必ず終りあり」ということわざがあるように、戦前の早明黄金時代にも第1幕を閉じるときがやってきた。太平洋戦争激化のため1年2シーズン制となった1942(昭和17)年前期(春季)の慶明戦が波乱のはじまりである。立役者はもちろんラグビー創始校の慶應蹴球部─。「秋季に比べ練習期間の短い春季リーグ戦で特筆されるのは慶應が明治との定期戦11連敗という『負の記録』に終止符を打った…」とまで慶應百年史に書かせた明治強力FWの敗退ではあったが、慶應には勝者としての確たる理由があった。
 話は1938(昭和13)年に遡る。この年の春、慶應黒黄会は監督に脇肇の就任を要請した。1930(昭和5)年の全国制覇を最後に早、明の後塵を拝すること8年。まるで3位が定位置であるかのような現状からの脱出は「ラグビー創始校の名誉にかけても…」という至上の命題が闘将脇肇の起用となったわけだが、7大学リーグの当時の実情は、早明両校の実力があまりにも突出していて、単に監督を入れ替えただけで事が済むほどなまやさしいものではなかった。そうした状勢をすべて承知のうえで、監督就任の要請を受けた脇肇も凄いが、起用に踏み切った黒黄会首脳の目に狂いのなかった点もすばらしい。結果のほどは後述するとして、まずここでは新監督が最初にしたことを紹介しよう。
 それは世にいう5カ年計画での再建であり、エイトFWへの転向である。ルールが大幅に改正された1939(昭和14)年後のエイト転向なら早稲田の例がある。しかし新監督の方針転向はその前年のこと。慶應で伝統のセブンシステム放棄は革命にも似た出来事といえるが、脇肇の凄いところは、エイトFWの対象を監督就任の年に予科生として入学してきた新入部員とした点だった。7大学リーグ戦に出場するのは従来のセブンシステムを踏襲する学部チーム。ラグビー創始校の未来を切り開くエイトFW育成の対象は、まだ色の染まっていない予科チーム。この2プラトーン制度は周囲の雑音にはおかまいなく着々と進行していく。
 学部主体のセブンチームは7大学リーグで現状維持の状態から抜け出せないでいたが、エイトFWを探求する初年度予科生は、3年生になった1941(昭和16)年1月の第16回高専大会で優勝し、5ヵ年計画の第1段階を見事にクリアーした。しかも優勝したのが1月8日。その翌9日の同志社定期戦にはセブンの大学チームにエイトの優勝FWが7人まで起用されて勝利をもたらしている。FWがセブンのため高専大会優勝メンバーから、第3列の中谷がひとり同志社戦を欠場しているが、それはともかく、この事実は脇肇が3年という歳月をかけて育てあげた予科のエイトFWが立派に大学チームの主力となった証しともいえるだろう。
 こうした背景のもとに慶應は大学チームも、翌1941年度のシーズンから伝統のセブンシステムをエイトFWに切り替え、2シーズン制となった1942(昭和17)年の春季にまず打倒明治を実現。次いで同年後期シーズンの秋季に宿敵早稲田を11−5のスコアで破って、1931(昭和6)年度に野へ降って以来、夢となってきた王座への復帰を見事にやってのけた。その優勝メンバーのひとり、針生俊夫が思いのたけを六十年史に寄せている。
 「…遂に待ちに待った十一月二十三日が来た。併しこの朝、突然敵機襲来の空襲警報が無気味な音を鳴り響かせてその日のゲームは残念ながら次の日曜日(6日後の29日)に持ち越すこととなった。張りつめた気分を数日後まで持ち続けることは大変な苦痛なことと思ったが、脇監督は突然全部員禁煙の命令を出されて緊張の決意の持続の材料とされ、益々決意を固めることが出来た。試合は案じていたよりも圧倒的に押しまくり前半五─〇、後半六─五計十一−五で完勝することが出来た。神宮競技場の時計台がノーサイド近くなるにつれゲーム中にもかかわらず『もう勝った』という気持ちから自然に涙があふれて困った。控室に引揚げて脇さんへの感謝の言葉で到底言うことも出来なかった。脇さんのボストンバッグから『さくら』の煙草の箱が一人一人に渡されて『よく我慢してくれた、思うだけ吸え…』と言われた時は感激の極地だった…」─と。
 おそらく、この針生俊夫の感慨は12シーズンぶりの王座奪回に成功した慶應ラグビーの関係者すべての思いを、声を代表するものだろう。だが、ラグビー創始校の喜びも束の間。翌1943(昭和18)年度は10月9日に慶應─立教戦が1試合行われただけ。太平洋戦争の激化というより、戦局の悪化は10月16日の大日本体育会闘球部主催学徒出陣壮行の紅白試合、10月21日の文部省主催学徒出陣の壮行会へと進行。大学、高専のラガーマンたちはだれかれの見境なく戦火の真っ只中へとかりたてられていった。王国再建の夢を抱き、そのスタートとなる優勝を1942(昭和17)後期にはたしながら、戦火のために断念せざるを得なかった脇肇ではあるが、「…五シーズン六年やって、当時の予科の一年生から六年かかって、全く自分のフォワード(エイトFWの意)であり、自分のチームを仕上げて、そして十二年間負け続けておった早慶戦をものにして、それから後これで四、五年は大丈夫と思ったところで、十八年にみんな戦争で出て行ってしまったものだから、せっかく心血をそそいだ結果がゼロになってしまった…」と、戦前最後の優勝監督、脇肇は戦後になって当時の心境を述懐している。あまりにも淡々と述べているだけに、無念の思いがいっそう強く響いてくるといったら、言いすぎだろうか。
 日本ラグビーフットボール協会80年史「戦前の部」は、この項をもって閉じる。