《1943(昭和18)、44(昭和19)年の空白を乗り越えて》


 悪夢の2年間は終わった。消し去り様のない歴史の事実の数々…。敵性用語の禁止でラグビーの名称は闘球となり、日本協会は大日本体育会闘球部会に吸収されて、時の軍事政権の厳しい統制下に置かれた。しかし、実際に闘球試合の名称のもとに行われた関東大学ラグビーは、先に本80年史戦前の部の最終記録として記しておいた1943(昭和18)年10月9日開催の慶應vs.立教戦(慶應・日吉グラウンド)の1試合だけ。ほかに例を求めるなら、同年7月3日に神宮競技場で大日本体育会闘球部会主催の第1回関東産業人紅白試合が記録として残っている。これらの試合では「戦時下学徒訓練要綱」のもとに、ラグビー用語として使用の名称変更が下記のように強制されている。
 また、大阪毎日新聞社主催の全国中等学校ラグビー大会第25回大会(昭和18年1月)は主催者が文部省と大日本学徒体育振興会に移ったのも、戦時下の象徴のひとつといえるだろう。
[戦時下のラグビー用語名称例]
FW=第1線  HB=第2線
TB=第3線  フライングハーフ=遊撃
FB=後衛
 スクラム=整集  ルーズ=密集
 トライ=達成(その後=略陣)
 タックル=挺倒…etc.
 このような戦時統制下を背景に、1943(昭和18)年9月22日の閣議決定で「理工科を除く徴兵猶予撤廃。12月10日を期して学徒動員の実施」にともない、全国の大学、高等、専門学校のラグビー部員は陸、海軍予備学生として入隊していった。各大学ラグビーの年史、あるいはラグビー部史が綴る1943、もしくは44(昭和18、19)年度の項を開くと、例外なく戦火に倒れたチーム・メートの名を告げる活字が目に飛び込んでくる。合掌…。
 悪夢は去った。1945(昭和20)年8月15日──。戦争は終わった。焦土と化した東京へ、大阪へ…。復員列車で仲間たちが帰ってくる。関西では早くも終戦の1カ月後の9月16日にラグビー復興の会合が開かれた。当事者のひとり、正野虎雄が関西協会史に「昭和20年・試合」と題して、次のような記述を残している。
 「8月15日敗戦、関西では全国に先がけ西野綱三氏の音頭で、ラグビーの再開がすすめられた。関西在住のラグビー愛好者は、日本のラグビーの復興は関西から、という使命感に燃え意気軒昂たるものがあった。食料難、インフレ、物不足と大変な条件下であったが、このときこそ自分達の働く時と、みんな妻子も勤先も顧みず力を協(あわ)せて頑張った。…9月16日の復興計画の打合せに参加したのは、井上二郎(慶)西野綱三(早)奥村竹之助(京)別所安次郎(京)谷口敏夫(京)杉本彰(慶)北条誠司(関学)正野虎雄(東)の8人であった。…」
 上記の8人は戦前からの関西ラグビークラブ(KRC)のメンバーだが、戦後の初会合(9月16日)では、1週間後の9月23日に京大グラウンドで、KRC対三高戦を日本ラグビー復活第1戦とすることを決議し、同時に関西クラブのメンバーを別表の通り発表している。試合はKRCが24−6のスコアで快勝。翌24日付けの朝日新聞(東京)によると、1段のベタ記事ではあったが「初のラグビー 関西クラブ勝つ」の見出しとともに、「千余名の観衆を集め…」と報じている。食料難にもかかわらず、千人を越すフアンが集まったということは、いかに多くの日本人がラグビーというスポーツにも飢えていたかを示す格好の例でもあり、また全国のラガーマンたちにラグビー復活への勇気を与えてくれた意義ある試合だったともいえるだろう。関西クラブのFBとして出場した田尾義治もそのひとり。慶應蹴球部1945(昭和20)年度の主将でもある田尾義治は昭和18年12月の学徒動員で在学中に海軍14期飛行予備学生として入隊。敗戦で復学はしたものの、たまたま秋の開講が遅れて帰省中だったことで、再開第1戦に矢も楯もたまらず試合にはせ参じたという。
【関西クラブ出場メンバー】
FW 釜原保幸(関大出)
  栗山──(同大出)
  村田保男(日大医)
  伊藤安衛(京大出)
  正野虎雄(東大出)
  谷口敏夫(京大出)
  北条誠司(関学出)
HB 堀場靖重郎(同大出)
  野上一郎(早大出)
  林藤三郎(早大出)
TB 内藤卓(同大出)
  杉本彰(慶大出)
  中西一雄(慶大出)
  阪口正二(早大出)
FB 田尾義治(慶大)
 また、正野虎雄は特筆事項として関西協会史に「関東での復活第1戦が11月2日であったのと比べると戦後の復興については関西が一歩リードして居た。之は主として西野氏の旗振りが適切であったことによるが、西野氏はラグビーだけでなく他のスポーツの復興も手がけ、『関西スポーツ連合』を組織しそれが昭和21年の第1回国民体育大会(近畿地区)の実施母体となった」と、国体創設時の功労者に西野綱三をあげているが、ラグビー界でもこの事実を知る人は少ない。西野綱三といえば、後に日本協会の専務理事としてラグビー発展に貢献した得難い人物のひとり。それだけに国体創設時とラグビー関係者を結びつける正野虎雄の紹介は貴重な記述といえるだろう。
 さて戦後の復活第1戦に敬意を表してまず関西クラブvs.三高戦について記してきたが、遅ればせながら、関東でも戦後の復活第1戦が同年の11月2日に成城高校(現成城大学)グラウンドで学生、OBそれぞれの紅白試合が行われた。日本ラグビー史には試合の実現を「…明大監督北島忠治の奔走によるもの…。成城高校のある世田谷区だけが、東京最終の空襲も免れた幸運な地帯で、学校も被害をうけていなかったので、ここが競技場に選ばれた。…」と記されている。戦災都市の被害に東西の区別はないが、一ついえるとしたら爆撃目標からはずされていた京都の存在がひと足早く関西での復活を実現させたともいえるだろう。その点、日本の首都だった東京は戦災からの復活にも厳しい条件が山積していた。その間の事情を日本ラグビー史は詳細に伝えている。その一端を再現してみよう。
 「全面的復興は容易なことではなかった。戦災をうけた学校はもちろん、直接被災しなくても、学校そのものの再建の道もけわしかったし、学生個々の生活環境も、学業のかたわらスポーツを楽しむ余裕など持てなかった。学生であることよりも、一個の生物として生きることに、1日の労苦のほとんどが費やされたといっても決して過言ではなかった…」──。
 日本ラグビー史には終戦直後の惨状を綴った記述はまだまだ続くが、読む者の心を引きつけるのは「困難を乗り越えて」という次の小題である。その項には、ラガーマンたちが立ちはだかる幾多の困難にもめげず、不屈のスピリットでラグビーの復活に取り組んでいった様(さま)がビビッドに記されているが、ここで強調しておきたいのは「それでもひとたび道が開けると、さすが長年の歴史の息吹きが蘇ってきて、11月23日には日産厚生園で大学高専の混合試合、OBの混合試合、早慶OB試合などが行われ、みんなで力を合わせて明日の復興を誓いあった」というくだりである。先人たちのこの「復興への誓い」があったればこそ、今日の日本ラグビーがいまも存在するのであり、またこの「復興への誓い」が偉大な形となって出現したのが東京ラグビー場──すなわち現在の秩父宮ラグビー場である。
 このようにKRC−三高戦によって火をつけられた戦後のラグビー復活への動きは、燃え盛る燎原の火とでもいうか、たちまち西に東にと広がっていった。9月30日にKRC−京大戦、11月28日に一高−三高定期戦がいずれも京都で行われ、12月9日には西宮球技場で東大京大定期戦と続いた。試合は一高、東大の西下組の勝利に帰しているが、これらの復活定期戦がすべて関西を舞台とし、また当時でいう官立系の旧制高校、大学に集中している点が大きな特色といえば特色である。理由をあげるとすれば、関西に比して東京の復興が手間取っていたということだろう。それはともかく、復活の早かった一高、東大が長距離列車の乗車券入手も困難な終戦直後の混乱時代にもかかわらず、関西遠征に挑み、そして立派にやり遂げた彼ら若者たちのエネルギーと情熱は、その後の復活への行動に大きなはずみをつけたといえるが、関東でのもうひとつの特色は、OBリーグの発進である。1946(昭和21)年2月24日に駒場の一高グラウンドで開幕。熱戦が4週間にわたって繰り広げられたが、慶應OBが5戦全勝で第1位となった。
 また東京での大学公式戦としては、元日恒例の第19回慶京定期戦が復活のはしりといえる。1946(昭和21)年1月1日に東京・吉祥寺の日産厚生園で2年ぶりに行われたが、ニュース映画にも収録されるなど、ラグビーフアンに明るい話題を提供した。京大は関西勢として戦後はじめて東上してきたチームであったが、試合はホームチームの慶應が21−8で逆転勝ちしている。
 なお、レフリーを務めた明治の監督北島忠治は、戦前最後の7大学リーグ戦となった1943(昭和18)年秋の慶立戦でも笛を吹いており、戦火の中断をはさんで関東の大学ラグビー育成に八面六臂(ぴ)の活躍ぶりは特筆されてよい。
 関東での復活公式戦第1号が日産厚生園というそれまでラグビー界とは全く縁のなかったグラウンドで行われたわけだが、その理由について慶応蹴球部百年史には「成蹊高(現成蹊大学)OBの尽力で進駐米軍が接収中の吉祥寺・日産厚生園グラウンドを借りられることになった。緑の絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたようなよく整備された芝生のグラウンドとクラブハウス…。敗戦国の日本ではちょっと考えられない別天地だった…」と記されている。しかも慶京定期戦だけでなく、毎日の練習にも使用許可が下りて慶應蹴球部の吉祥寺通いがしばらく続いたそうだが、その年度の主将椎野正夫は当時を振り返って「日吉の合宿所から吉祥寺通いに持っていった昼食は甘藷入りの握り飯2個だけ。満員電車に詰め込まれたあげく片道3時間の難行苦行の練習通いだった…」と語ってくれた。別天地の占領軍接収グラウンドにくらべ、厳しい食料や交通事情にみる敗戦国民との立場の違い。そこには当時の世相がくっきりと描かれている。
写真・図表

 神宮競技場など都内の主要グラウンドを接収された東京にくらべ、花園ラグビー場こそ接収されはしたが、西の京阪神地区にはまだ余裕があった。その代表的な競技場が阪急電鉄経営の西宮球技場である。京阪神からの交通の便は最高。終戦とともに関西ラグビー復活の主会場となっていたが、1946(昭和21)年4月29日に全早慶ラグビーが東京を離れて、ここ西宮球技場で初めて行われたのも、東西のグラウンド事情が大きく影響していたといえるだろう。早稲田ラグビー六十年史によると「3000人の観衆を集めた」とあるが、東京の大学同士の対戦、それもOB中心の試合にしては、予想以上に関西のラグビーフアンから大きな支持を得たといえるかもしれない。全早稲田はつづいて5月には京都に遠征し、全京大とも対戦している。視点を変えれば、慶應にしても、また早稲田にしても関西出身のOBが多く、メンバー編成がスムーズにできたことが幸いしたともいえるだろう。
【全早慶ラグビー】
 日時:1946(昭和21)年4月29日
 場所:兵庫・西宮球技場
 全早稲田 34(26−3、8−29)32 全慶應
全早稲田全慶應 対戦記録表

全早稲田全慶應 メンバー表