【専用ラグビー場の建設】
「復興への誓い」は当時のラガーマンたちの心の中から消えることはなかったが、ひとつ復活へのネックとなったのが試合会場の確保である。戦前は神宮競技場が7大学リーグをはじめ主要ゲームの舞台だった。日本ラグビー史にいわせれば「まるで専用ラグビー場のように使ってきた」となる神宮競技場はじめ明治神宮外苑の諸施設は、すべて進駐米軍の管理下にある。それでも復活第1戦となった第23回早慶定期戦だけは神宮球場の使用許可が下りたが、それは勝手の違った野球場。戦前の1928(昭和3)年2月に甲子園球場で行われた第1回東西対抗時代へと時計の針が逆回りしたような錯覚すら覚える神宮球場での試合ではあった。しかも「雨が降ったら使用させない、必要があれば何時でも許可を取り消すなど、進駐米軍の管理責任者は言いたい放題。こんな不安定なことでは、とても将来の発展は期されない」(日本ラグビー史)との思いが、当時の関東協会理事たちを専用ラグビー場建設へと駆り立てていった。西野綱三、飼手譽四夫、北島忠治、伊集院浩、西海一嗣、鹿子木聡、原田三治らが理事として名を連ねていた。
いずれも戦後のラグビー界を背負って立った面々たちだが、鳩首を集めて策を練ること数合。結論は「まず建設する候補地を探すこと」だった。1947(昭和22)年3月のことである。新聞社勤務の鹿子木聡と伊集院浩が職業がら適任ということで、土地探しの担当に選ばれ、そして白羽の矢が立った土地。それが女子学習院の焼け跡であり、現在の秩父宮ラグビー場である。当時は進駐米軍が神宮外苑一帯を接収していたが、幸いにも焼け跡は管理外ということから、外苑奉賛会の鷹司信輔明治神宮宮司との交渉が成立。焼け跡とはいえ、都心の1等地の確保に成功したというわけである。
ここまでの経過はすべて順調にいったが、土地借り入れの覚書を手にしたところで、計画推進ははたと行き詰まった。建設資金の捻出である。交渉相手の鹿島建設は「フィールドの部分を1メートル掘り下げ、その残土を周囲に盛って観客席にする工事費が150万円…」で請け負ってくれるというが、その条件を充たす蓄えは日本協会にも、関東協会にもまったくない。それでもまだ救いはあった。「着手金として30万円が出せるなら残金はいますぐでなくても、工事にはかかる」という申し出である。香山蕃の遺稿には「慶應、早稲田、東大、明治、立教の5大学OBがそれぞれ5万を持ち寄り、これを私(香山蕃)が30万円にした」とあり、ようやくラグビー場建設はスタートしたという。ここに至るまでの涙ぐましいラガーマンたちの献身的な協力ぶりを、日本ラグビー史の記述(要旨)で偲んでみよう。
「…さて工事にかかってみると、焼失建物の地下の基礎工事が頑強だったため、予想外の難工事となったが、秩父宮殿下の雨の中をおかしてのご激励があり、『何分ラグビー協会は貧乏であるから、ひとつよろしくたのむ』とのお言葉に感激した鹿島建設は、採算を度外視して工事をすすめた。またラガーメンも多数が勤労奉仕をして、汗とあぶらをグラウンドの上にそそぎ『われらのラグビー場』建設に誠意のこもったひと役をはたした。工事費の残金は、1000円のシーズンチケットを2500枚発行して、広くラグビー支持者に買い取ってもらい、木製のスタンドの仮設工事ではあったが、ともかくもここに専用ラグビー場が、ラガーメン自身の手でできあがり、もうグラウンド遍歴に苦労することのない安住地をつくることに成功した」──と。
日本ラグビー史がいう「シーズンチケット…」とは、いまも賛助会員券として日本協会の財源のひとつとして続いており、また「多数の勤労奉仕…云々」についても、当時の5大学在籍者にとっては、グラウンドのローラー引きや、土盛りの観客席に生える草引きに汗を流した青春時代の思い出として記憶の片隅に残っていることだろう。当時の新聞は打ちひしがれた国民への明るい話題として「ラガーマン手づくりのグラウンド」と報じているが、完成を祝うグラウンド開きが行われたのは1947(昭和22)年11月22日。明治OB−学生選抜、明治−東大の2試合が行われて、東京ラグビー場(後に秩父宮ラグビー場と改称)の歴史ははじまった。公式戦開催の第1号は翌23日恒例の早慶定期戦。グラウンドは軟らかい赤褐色の関東ローム。いわゆる火山灰が堆積した赤土むきだしのグラウンドではあったが、日本ラグビー再興への原動力となったことはいうまでもない。なかでも全国のラグビー少年たちの心をとらえたのは東京ラグビー場を舞台とする早慶戦や早明戦のニュース映画。映像の流れに合わせたキャスター独特の語りは、東京ラグビー場という新鮮な舞台のイメージをラグビー少年たちの脳細胞にしっかりと刻み込んだ。おそらく専用ラグビー場の建設に奔走した5大学OBはじめ日本協会、関東協会の関係者たちも、そこまでグラウンド建設の効果は考えてはいなかっただろう。いま思えば東京ラグビー場の建設こそ、日本ラグビーの再建、そして発展へのエネルギーのすべてだったともいえる。
やがて東京ラグビー場はラガーマン心の結晶にふさわしく、その装いを新たにしていく。第1段階のきっかけは1952(昭和27)年9月に戦前、戦後を通じて初の来日という英国きっての名門大学オックスフォードの招致実現である。日本協会はこのエリート軍団を迎えるにあたり、1500万円の借り入れ金で、鉄筋コンクリートのスタンドと、木造2階建てのクラブハウスを建設した。もちろん、敗戦国独特のクレーのグラウンドがラグビー先進国なみに緑の芝生となったことはいうまでもない。わずか5年間、それも工事費150万円の10倍の大金をかけた一大整備である。さらに東京オリンピックのサッカー会場に指定されたことで1963(昭和38)年12月の改修、そして1973(昭和48)年、1976(昭和51)年と補修、改築工事がつづいて、1988(昭和63)年の大改修時には、完成とともに新装落成を祝うレセプションが日本協会の主催(9月30日、帝国ホテル)で盛大に催されたが、日本ラグビー発展の象徴ともいうべき現在の秩父宮ラグビー場は、このときの大改装によるものである。それにしても、東京オリンピックを3年後にひかえた1961(昭和36)年9月、当時の日本協会会長香山蕃が池田内閣の荒木万寿夫文相、水田三喜男蔵相を説得したからこそ、88年の大改装も実現できた。もし香山蕃の情熱と説得がなかったとしたら、現在の秩父宮ラグビー場は東京オリンピックの屋内プール(水泳会場)と化していたことになる。
近代オリンピックの実施種目にラグビーはない。しかし、戦後のわが国のスポーツ再建を五輪の金メダル獲得に托した日本体育協会内にあって、日本ラグビー協会が重きをなしていた最大の理由…。それは終戦直後の混乱が最高潮の1947(昭和22)年に、みずからの力で専用のラグビー場建設をやってのけた勇気と実行力にある。当時の体協幹部あるいは体協加盟団体の役員たちがラグビー専用グラウンドを話題にすることはなかったが、体協理事会なり、国民体育大会委員会などでのちょっとした発言、あるいは雰囲気に羨望と敬意の一端をのぞかす瞬間があった。後にラグビーの体協脱退、そして復帰問題(後述)が起こった際に、体協内にあるこうした潜在意識が復帰を早める陰の力となったことを記しておきたい。
(注)当時の日本体育協会は国際関係の日本オリンピック委員会と国内関係の国民体育大会委員会の2つの委員会で運営。2人の専務理事がそれぞれの総務主事として業務を分担していた。
【ラグビー場の国立移管】
日本ラグビー復活の基地であり、拠点となった秩父宮ラグビー場に未曾有の危機が突如としてやってきた。最近巷でよく耳にする「晴天の霹靂(へきれき)」とは、まさにこういうことをいうのだろう。日本ラグビー史は「膨大になった借地料」と題して、当時のもようを克明に綴っている。その要旨を再録しよう。
「…日本協会は、これが保存発展のためにも、協会組織を財団法人に改め、その保存に万全をきしたのであったが、はからざる事情が、これを国立競技場に附属する国有財産に移管せざるを得ない始末となった。もともとこのラグビー場の敷地は明治神宮の管理するところであり、土地の所有権は国にあったとはいえ、協会の交渉相手は神宮であった。はじめは借地に対する地代ともいうべき使用料について確定した約定もなく、いわば御賽銭ともいうべき性質のものを神宮に納めるだけでよかったので、初年度は2万円ぐらいを神宮へ奉納するにとどまった。ところが国の国有財産の整理がすすむとともに、この土地の主管が大蔵省関東財務局に移り、協会の交渉相手は神宮から財務局に変ったのであるが、財務局は経済事情の変遷にかんがみて、29年度には、年額149万円の土地使用料を要求し、更に30年度178万円、31年度205万円、32年度308万円と急ピッチで増額をしてきた。協会は29年度以来、しばしば財務局と折衝したが、年々協会の可能の限りをつくして納付する借地料も、財務局の極端な引上げに追いつくことができず、さらにひきつづいて財務局は契約の内容を一方的に更改して、34年度655万7千円、35年度1002万8千円、36年度1465万6千円と鰻のぼりの多額を要求し、36年度限をもって合計3124万円の滞納金を支払えと通告してきた…」
このころのことである。日本協会会長香山蕃は大蔵省のラグビー人脈に、あるいはお茶の水の体協記者クラブに詰める大学ラグビーのOB記者たちに協会の苦境を訴えるなど、それこそ寝食を忘れて日夜駆けずり回る毎日を送っていた。しかし、会長みずから先頭に立っての働きかけも結局は徒労に終わり、ラグビー場の国立移管へ踏み切ることとなる。この神宮外苑にグラウンドを確保するとしたら、この方法以外ほかに選択肢のない最後の決断ではあったが、交渉相手の文部省との話し合いは必ずしも順調とはいえなかった。といって政府側には東京オリンピックの準備という大事業があり、また協会としても3700万円の滞納金に加えて、毎年度1000万円を越す使用料を負担して行く財源はない。この両者のおかれた立場、事情から昭和37(1962)年度に国立移管問題は決着をみたというしだいである。
日本ラグビー史が伝える結論とは①秩父宮ラグビー場の国立移管に伴い、隣接の国立霞ヶ丘競技場と同じ組織系統に属し、所有、管理を国に譲渡する。 ②協会の所有物件であった観客席、クラブハウス、事務所、ロッカールーム、フェンス、ゲートなど一切の建物および付属物件を時価に評価し、両者間で売買契約を結んだうえで、協会の滞納金3700万円を支払う──の2点。日本協会としては「ラグビー場を所有するのが目的ではなく、本来の使命のために使用することが目的である見地から、将来のラグビー場運営についてはとくに配慮をして、移譲の契約に際しては別稿のような覚書を交わして、このラグビー場を建設したラガーマンたちの精神を生かし、また日本ラグビー発展の上に支障なきを期した」(日本ラグビー史)という。
【覚え書と運営委員会】
秩父宮ラグビー場施設の買収等に関する覚え書
文部省および財団法人日本ラグビーフットボール協会(以下「協会」という)は、秩父宮ラグビー場施設の買収に関し、次のことを確認するものとする。
一 協会は、秩父宮ラグビー場にかかる建物、工作物、芝生等地上物件の一切を文部省に売り渡すものとする。
二 文部省は、一の物件の一切を買収のうえ、同ラグビー場にかかる国有地とともに、ラグビー競技場として国立競技場へ出資するものとする。
三 協会は、二の買収代金を、国に納付すべき同ラグビー場の土地にかかる使用料およびこれに対する延滞金の支払いにあてるものとする。
四 文部省は、出資後のラグビー競技の運営管理に関し、次の事項の実現に努力する。
(1)名称は「秩父宮ラグビー場」とすること。
(2)ラグビー競技場の円滑な運営に資するため、諮問機関としてラグビー関係者を加えた運営委員会を設けること。
(3)ラグビー競技場の使用にあたっては、ラグビー競技を優先させること。
(4)場内の物品販売禁止、広告禁止等管理上の従来の方針としてとられてきた措置は、尊重すること。
(5)芝生の良好維持のほか、夜間照明施設の設置等施設設備を整備充実すること。
五 六 省略
七 将来同ラグビー競技場を民間等に払い下げる場合は、協会に優先的に払い下げることを考慮するものとする。
八 省略
昭和37年3月10日
文部省体育局長 前田充明
財団法人日本ラグビーフットボール協会会長 香山 蕃
【ラグビー場運営委員会規定】
第1条 国立競技場にラグビー場運営委員会(以下「委員会」という)をおく。
第2条 委員会は、ラグビー場の運営に関し、会長の諮問に応じる。
2 委員会は、ラグビー場の運営に関し、会長に意見を述べることができる。
第3条 委員会は、15人以内の委員をもって組織する。
2 委員は、ラグビー場使用団体の関係者およびラグビー場の運営に必要な学識経験を有する者のうちから会長が委嘱する。
3 会長は、特に必要と認めたときは、臨時に委員を委嘱することができる。
4 委員の任期は1年とする。再任は妨げない。
第4条 国立競技場役職員および文部省関係官は、必要に応じ委員会に出席して協議に加わることができる。
第5条 委員会は、必要の都度会長が召集する。
第6条 委員会の議事を掌理するため委員長をおく。
2 委員長は、委員の互選とする。
3 委員長に事故あるときは、あらかじめ委員長が指名した委員が委員長の職務を代理する。
附則
この規定は、昭和37年4月1日から施行する。
以上
上記の規定にしたがって、最初の運営委員には日本協会会長香山蕃、専務理事西野綱三、理事品田通世(関東協会理事長)、理事小林忠郎(関東協会書記長)、名誉副書記長高島清が協会側から委嘱されたほか、学識経験者として灘波経一、岸田日出刀、小沢智雄、川本信正、塩沢幹が委嘱され、委員長には香山蕃を互選。秩父宮ラグビー場は運営委員会の主導による再出発となったが、日本ラグビー史は「ラグビー場がラグビー競技場として保全せられるかぎり、枝葉の問題にはこだわらない基本方針を貫いたのであって、日本ラグビーのメッカともいうべき秩父宮ラグビー場は、今後も永久にその使命をはたしてゆくことだろう」という言葉で、移管問題の記述を締め括っている。先人たちの献身的な努力に改めて敬意を表するものである。