《日本協会の体協脱退と復帰》


【体協脱退の理由とその経緯】
 日本協会が1926(大正15)年11月30日の創設以来、初めてともいえる試練に直面した。それは1956(昭和31)7月3日に起こった日本体育協会(以下体協)からの脱退である。直接の理由は体協がオリンピック・メルボルン大会の選手団派遣費を競輪からの寄付金でまかなおうとした点にあったが、戦後のオリンピック参加と競輪の関係は古く、これに対して日本協会もアマチュアリズムの観点からそのつど厳しく追及してきた。日本ラグビー史は「アマチュアリズムの擁護」という項目の文中で「…プロ的色彩を容謝(赦)なく排除しつづけ、また一般社会の邪悪に対しても、すこしも妥協を許さぬピュアーな態度を…」と記しているが、そもそも問題発生の原点を探っていけば1948(昭和23)年の第3回福岡国体に遡る。
 国体開催都市の福岡市にはラグビー競技場のフィールドを取り巻く部分を競輪トラックとして使用。その売上を財源の一部に当てようという計画のあることが九州ラグビー協会からもたらされた。アマチュア精神を協会設立の柱とする日本協会としては黙過できることではない。ただちに衆議をまとめて監督官庁の通産省と福岡市当局に対し、アマチュア競技擁護の見地から異議を申し立てた。当時の社会情勢ではまだ日本協会の要望を認める潔癖感が多少なりとも残っていたのだろう。競輪の実施は中止となった。
 こうして第1のハードルは日本協会の希望通りにクリアできたが、スポーツと競輪の関係は時の経過とともに深まっていく。第2弾は形を変えて1950(昭和25)年に、オリンピックと競輪という組み合わせでアマチュアリズムに挑戦してきた。1952(昭和27)年のヘルシンキ・オリンピックに参加する日本選手団派遣費の一部を全国自転車振興会連合会に負担してもらおうというのである。ヘルシンキ五輪といえば、IOC(国際オリンピック委員会)から戦後の日本が初めて参加を許された大会でもあり、また、この時点ではやくも体協JOC(日本オリンピック委員会)と東京都がひそかにオリンピックの東京招致を話し合うなど、ヘルシンキ大会参加とともに、水面下では東京オリンピックの開催を日本復興の起爆剤とする壮大な構想が練られていた。ただ、オリンピックの招致はあくまでも青写真の域を出ない机上のプラン。しかし、ヘルシンキ大会への参加は戦後の体協が初めて経験する大事業であり、それには巨額の資金調達というアマチュアスポーツ界にとっては、最も苦手とする問題を解決しなければならない。そこで浮上したのが競輪に援助をお願いする案。具体的にはオリンピック後援と銘打つ競輪大会を全国的に展開して、その売上の一部を選手団の派遣費にあてようというもの。これには通産省も認可する方針であることが日本協会にも情報として届いた。
 過去に福岡国体の例もある。とりあえず日本協会は同年の9月13日付けで①この企画が実施された場合、体協JOCがその寄付金を受け取るのか、どうか ②日本協会は本件について深甚な関心をもっている──との2点を体協会長(JOC委員長)東竜太郎宛てに提出した。体協からの反応はない。世論の反発を考慮したのか、オリンピックの名を冠した全国競輪の展開もないまま、翌1951(昭和26)年を迎えたところで事態は急変する。8月20日付けで「競輪、競馬等の特別実施によって、その利益金をオリンピック選手団派遣費に充当することが8月15日の評議員会で決定」との通告が日本協会会長宛てに届いた。しかも、そこには「昨秋之に対する反対意見がありましたが、この企てに対し貴意を得たく何分の御回示をお願い致します」と、日本協会の意向をただす文章まで添えられていた。
 もちろん日本協会の方針に変更はない。「昭和25(1950)年9月13日付けの体協宛通達の精神を何等変改するものではない」と、派遣費調達のための特別競輪、競馬に反対の意向を回答したが、時間的には体協側が当初に考えていたヘルシンキ大会への派遣費調達には間に合わず、問題は未解決のまま4年後のメルボルン大会へと持ち越されることとなった。この間、日本協会にとって事態は好転したかといえばまったくその逆方向へと動いていく。まず、1954(昭和29)年12月26日開催の体協評議員会でラグビーの意向を支持したのは日本軟式野球連盟ただ一団体だけ。結局、競輪の寄付金受け入れはこの評議員会で最終的に決まった。
 年来の主張を反対多数で否決された日本協会は体協内で孤立したことになるが、それでもこの時点で体協脱退という強硬手段に訴え出る空気はなかった。むしろ「脱退したからといって体協の方針転換の上になんの効果をもたらすものもはなく、ラグビー協会としては『軽挙』の謗りを招くことだけは…」(日本ラグビー史)と、冷静な対応でその後の経緯を見守る姿勢にあったが、最悪の事態を招く引きがねとなったのは、4月にはいって東京、大阪で行われた「オリンピック後援特別競輪」である。しかも大阪での開催には①オリンピックの聖火リレーよろしく伊勢神宮から御神火を運んでくる ②優勝レースのチャンピオンには体協会長賞がわたされる ③レースの上位入賞者に金、銀、銅メダルが贈られる ④日本オリンピック後援会会長や体協会長が登場して祝辞や謝辞を述べる…などなど。日本協会役員の神経を逆撫でするような協賛競輪の開催を黙って見過ごすわけにはいかなかった。
 日本ラグビー史は日本協会の体協脱退という決断について「ついに来るべきものが来た。6月17日の理事会、評議員会は、日本ラグビー協会の一貫した従来の主張にもとずき体協を脱退する旨決議し声明書を発表して、翌18日正式に脱退届を体協へ提出し、7月3日の体協評議員会でやむなく承認された。」と、事実関係を淡々と記すとともに「…結局はラグビー協会の理想主義を肯定しつつも、体協の現実主義もまたやむを得ないとするのが、もろもろの意見の帰一(きいつ)するところであった」とも述べている。理想と現実の狭間に揺れた先人たちの苦悩に想いをいたすとき、日本ラグビー発祥時に叩き込まれた明治時代の田中銀之助イズムが敗戦を経た昭和にも生きつづけていたということだろうか。アマチュアという言葉は死語になって久しい。その意味では日本協会の体協脱退、そして復帰という出来事は、商業化、プロ化と変貌していくスポーツ界の未来を予知していたと考えたくもなる。
【体協への復帰】
 日本協会の体協脱退という行為はアマチュアスポーツの世界に一石を投じはしたが、世論を突き動かすまでにはいたらなかった。その現れのひとつが高校ラグビーの国体出場の願望である。日本ラグビー史には「…予期されぬことではなかったが」としながらも「国体参加は『体協加盟団体の認めるアマチュア競技者であること』という規定があるため、日本ラグビー協会が脱退した限り、ラグビー・チームは参加できなくなるということであった」と書かれているが、こうした事態の到来が想定外だったことは、その後につづく記述ではっきりする。「ラグビー協会としては、国体は国民全部の祭典であるから、脱退問題とは切りはなして、どのラグビー・チームも参加できるはずと解釈し、また参加せしめたい意向であったが…」というくだりがそれ。意図的に記述の構成を逆にしたのかはともかく、6月25日の体協国体常任委員会は「国体の主催者たる体協を脱退したものが、国体へ出場することは認め難い」と、ルールをたてに日本協会の一縷(る)の望みを砕く決定を下した。ここで日本協会は初めて体協脱退者に国体参加への道のないことを認識させられたところへ、追い討ちをかけるように、新たな競輪問題の出現である。
 それはこの年度の国体開催県である兵庫県が経費捻出の手段として「特別競輪の開催を企画している」という情報の入手である。高校ラグビーの国体参加という難問を抱える日本協会としても、競輪問題で体協を脱退という高価な代償を払ったばかり。そのような状況下に飛び込んできた国体開催にからむ競輪問題である。日本協会としては再び体協脱退と同じ趣旨で、国体不参加の声明を出さざるを得ない状況に追いこまれかけたが、幸いにも今回は兵庫県側が特別競輪の開催を事前に取り止めたことで、日本協会も特別競輪開催を前提とした声明書を撤回。とりあえずこれで目前の競輪問題は解消したものの、協会内部から出てきたラグビーの国体参加問題は未解決のまま。そうした閉塞状態のなかで、問題解決への道を切り開いたのが、教育的見地を全面に高校ラグビーの国体参加を、体協側に強く働きかけた兵庫県高校体育連盟(以下高体連)、並びに全国高体連である。
 体協理事会は高体連からの要望に応え、8月12日の会合で「今年度は臨時措置として体協内に特別管理委員会を設け、高校の部だけを実施する」決議を採択。日本協会からの申し入れを頑なに拒否してきたラグビーの国体参加を、高校に限って認める臨時措置で門戸を開いた。この決定に基づき日本協会は同管理委に脇肇(日本協会)、片岡春樹(関東協会)、目良篤(関西協会)、葛西泰二郎(九州協会)の4人の委員を送って、新局面の展開に対処することとなったが、これで国体参加問題が全面解決したわけではない。今回の措置は31年度だけの臨時措置。翌32年度以降については白紙の状態というのが体協サイドの認識であった。
 体協側には「国体参加は体協加盟団体の認めるアマチュア競技者」という規定が厳然と存在する。日本のアマチュアスポーツ界に大きな影響力を持つといわれる高体連ですら、その規定の前には1年限り、しかも高校だけの臨時措置という厳しいものだった。日本ラグビー史は「…国体参加は日本ラグビー協会が体協加盟団体でなくてはならぬとする前提の当否は別として…」と、体協復帰を別問題とするようにも受け取れるニュアンスでその後の展望を記しているが、当時の日本協会がおかれた状況、あるいは世間の雰囲気を考えると、日本ラグビー史の立場としては苦悩のすえの表現だったのではないだろうか。それを示唆するのが次の3点の記述(要旨)である。
①ラグビー界にはひたむきに国体参加を熱望する高校ラグビー界の声があり、協会役員の中にも、アマチュア問題については、いうだけいって、社会通念のうちにもじゅうぶん徹底した。
②いつまでもこの問題にこだわって、青少年の純真なラグビー意欲のはけ口をふさぐようなことがあってはならない。
③体協に復帰しなければならないというなら、本来の主張を曲げるのではないから、面子(めんつ)などにこだわることなく、淡白に復帰すればよい。
 世界は動いている。そのスピードはますます速くなっている。日本協会80年史編纂の現時点で日本協会の体協離脱は競輪からの寄付金が原因だったと力説しても、現代っ子には全く理解されないだろう。それが現実というものである。いったんは明治時代の厳正なアマチュアリズムという理想に走って体協を脱退してはみたが、世の中は大正から昭和へと移り、時代の流れを見つめる評価の尺度も変わっていた。それも戦前と戦後の意識の変化には著しいものがある。他のスポーツと同じように国体へ参加したいと願う昭和世代の若者たちの意思表示には、昭和年代、それも戦後の現実がくっきりと描きだされていた。日本協会が体協脱退、そして復帰へと理想から現実へ舵を再び切り直した直接の動機を求めれば、そこには理想を追求する協会指導者たちとは異なる価値観のもとに育ってきた若者たちの存在に行き着く。表現を変えれば、それはラグビーの世界というサークルの中で、世代間のギャップが生んだ脱退であり、復帰劇だったということである。
 日本協会は内部の意見を集約したうえで、復帰について体協との話し合いを専務理事脇肇に一任した。交渉の相手は体協専務理事で国体委員長でもあった東俊郎である。出身大学はちがっても、脇と東はともに隅田の流れでオールを漕いだオアズマン同士。話し合いはスムーズに進展し、1957(昭和32)年6月16日の会合で「脱退を取り消し、無条件体協復帰」で両者の意見が一致したのはいうまでもない。同年6月19日の体協理事会、22日の同評議員会で日本協会の体協復帰が満場一致で正式に承認された。日本協会にとって理想は理想として堅持するものの、日本の中、そして世界の中でラグビーというスポーツの将来がどう在るべきかを学んだ貴重な1年だったともいえる。