《日本協会機関誌の復刊》


【戦前の機関誌発行】
 協会機関誌の先駆けは1930(昭和5)年10月に創刊された関東協会発行の「ラグビー」である。日本ラグビー史によると「残念なことに第2巻第8号をもって休刊の余儀なきにいたり、8号誌上で明白に理由を掲げて中絶した。理由は企業ペースに乗らず、協会がその欠損を負担する力を欠いたからであった」とあり、もし月刊とすればわずか1年8カ月の寿命だったことになる。発刊の時期が悪かった。1930年といえば昭和大恐慌の年。「世界恐慌は三○(昭和五)年に日本に波及し、物価・株価の暴落、貿易の激減、事業会社の減資・解散の続出となった」(グランド現代百科事典から)時代である。機関誌が企業ペースに乗らなかったから、あるいは関東協会に欠損を負担する力がなかったからといって、中断の責任を協会に科すのは正鵠を射た判断とはいえない。むしろ時の政府が経済統制令を敷くなど未曾有の経済混乱の中で「1年8カ月もの間よくぞ発行しつづけた」というのが正しい見方ではないだろうか。関係者の努力に敬意を表すべきだろう。内容的にも最後の機関誌発行となった第2巻第8号には、E. B. クラークの寄稿「Random Note for Rugger-men」(前史「トライ1号とドロップゴール1号」の項参照)を、また掲載号は不明だが、慶應ラグビー草創期のメンバー松岡正男の原稿を掲載するなど、日本ラグビーの歴史探求という観点からいえば、これら日本協会揺籃時代に発行された機関誌「ラグビー」の存在は貴重な史料といえる。ただ、発行機関が日本協会ではなく関東協会となっているのは、さきに「日本協会設立の項」でも述べたように、設立の早かった関東協会所属の事務担当者が、実際には日本協会の事務処理も兼務していたということ。こうした兼務体制は、事務局と名称がかわり、事務局員の数がふえた戦後も長くつづいていた。現在の2局体制となったのはワールドカップの発足前後といえる。
 ところで機関誌は廃刊されたわけではなかった。それが証拠に1934(昭和9)年1月に名称を「Rugby Football」と改め、総アート紙の大判という装いも新たに再刊する。発行目標は年9回。ラグビーのシーズンからみれば1月から再開というのは中途半端な気もするが、豪州大学選抜チームの来日が1934年1月24日(長崎港入港)だったことを考えると、再刊の時期、総アート紙の豪華版だったことも納得がいく。残念ながら日本、関東両協会には機関誌の保存版がない。したがって内容の詳細を伝える術はないが、おそらく機関誌がもつ性格、あるいは早稲田ラグビーの豪州遠征で生じた国際友好の面、そして南半球から初めて迎えるラグビーの友…など、諸般の事情から判断すれば「豪州大学ラグビーの特集号」ではなかったかと想像される。このあと1936(昭和11)年1月には南半球からNZ大学選抜の来日とつづくが、機関誌のほうはまたも気息えんえん。ついにNZ大学黒衣軍が帰っていった翌1937(昭和12)年度で発刊は再び中断(時期不明)。時局も太平洋戦争突入、そして学徒動員へと戦局の進展で、戦前の機関誌発行はそのまま幻と消えていった。
【戦後の復刊と機関誌の歩み】
 戦後の機関誌復刊は1951(昭和26)年度のシーズン開始にタイミングを合わせた10月号となっている。3度目の再刊となるわけであるが、戦前の発行責任が地域協会の関東協会だったのに対し、戦後の復刊では初めて日本協会から機関誌が発行されることとなった。既存の関東、関西、そして九州の3極体制が確立された時点での機関誌復刊であるから、これら3地域協会を統括する日本協会の責任で機関誌が発行されるのは当然のこと。まして翌1952年9月には日本のラグビー史上初めてラグビー創始国イングランドから名門オックスフォード大学を迎えることになっている。日本協会としても機関誌の制作発行を協会活動の重要課題のひとつと位置付け、協会内に編集部を設けて日本協会から中沢千鶴雄(立教OB)、伊藤次郎(慶応OB)、正野虎雄(東大OB)、矢村輝彦(立教OB=事務局長)、関東協会から舟橋快三(立教OB)、関西協会から伊藤保太郎(慶応OB)、九州協会から村上令(明治OB)、大学委員会から松田栄祐(東大ラグビー部主務)の8人体制で編纂に当たった。このメンバー構成でもわかるように日本協会出身の部員はルール、レフリング、主催行事の告知と説明、海外情報など国内外の情報を、地域協会部員は地域情報を、そしてただひとり学生から選ばれた部員は主として学校関係と雑事の担当だったのだろう。ここで注目したいのは関東協会出身の舟橋快三部員。復刊の日以来1997(平成9)年の「Vol. 47−1/JUL. 1997」号までの47間年にわたって黙々と機関誌編纂の柱となり、取り組んできた功績は決して忘れることのできない偉業である。「舟橋由晃」のペンネームで機関誌の最終ページに書きつづけた最後の「NO SIDE」のラグビーに言及した部分を原文のまま再録した。
平尾誠二、変幻自在に
 著者、早瀬圭一、上記の題名で去る3月25日、毎日新聞社から発刊された見事な単行本である。早瀬さんは新聞の切り抜きを連載文にまとめて五章に分載して完成したが、連載したものに大幅加筆され、その加筆分は連載に匹敵すると、この本のあとがきに書いておられる。早瀬さんは人も知るラグビー通で日本協会の賛助会員でもある。たまたまこの本が出た頃、平尾誠二は日本代表チームの監督を任命された。
 ビッグニュースであった。専務理事の白井善三郎氏は組織を変えても、やり易いようにやって欲しいと訴えた。平尾氏の第二ステージの幕あけとなった。
 ジャーナリスト美土路氏は次のように述べていた。
 「監督としては、まずその卓越した頭脳に期待される。試合を組み立てることが出来た数少ない選手としてこの能力と、神戸製鋼を7連覇に導いた指導力を、今度は代表チーム作りに生かすことになる。若い力と知識による『平尾体制』が、オープン化など変革の波に揺れる世界のラグビーで沈みきった日本の再浮上と言う難事業に挑むことになる」と、評した。
 全日本を代表するチームが、どんなチームに育って行くのか。平尾氏はあまり責任を感じないで、彼の生のままの腕前に期待したい。」
 機関誌の発行人は舟橋快三から浅生亨、徳増浩司、坂本典幸と引き継がれ、全面的にリニューアルされた。機関誌を手にしてすぐわかるのは編集方針が一変したこと。例えば表紙ひとつをとってみても、「AUG. 2005 Vol.55−1」号からジャパンのレプリカジャージーを着たラグビー少年と話題の選手を組み合わせた写真を扱うようになった。この表紙から想像されるのは英国のシックスネーションズでホームチームがグラウンドに姿をみせるとき、主将が少年あるいは少女の手をとって出てくるシーンだが、それはともかく表紙を飾る写真にラグビー少年を取上げた発想はすばらしい。「愛されるラグビー」をめざす編集部の意図がこの表紙だけで伝わってくる。
 また内容については誌面全体のビジュアル化が目につく誌面構成ともいえるが、記事と写真のバランスという点からは、このあたりがちょうどいいのかもしれない。いま80年史執筆の段階で届いた最新の「FEB. 2006 Vol.55−4」号を手にしている。最新ニュース、ワールドカップに向けたジャパンの目標と活動計画、協会チームの大会参加レポート、そして各委員会情報、試合記録…etc.。いま展開されているラグビー界のニュース、情報が網羅されていて申し分ない編集といえるだろう。なかでもこの最新号のビッグストーリーは「立教ラグビー宣言」である。たとえラグビー界のオープン化がすすもうと、やはり草創期から引き継がれてきた「フェアプレーの精神」がなくなってしまったら、ラグビーはスポーツではなくなり、単なる見世物に堕してしまう。機関誌編集部のクリーンヒットといわせてもらう。