《ラグビースクールと少年対策》


 日本のラグビー界に「ラグビースクール」という言葉が語られるようになって久しい。秩父宮ラグビー場でも、ビッグゲームあるいは国際試合のまえに東京近郊のスクールが集まってゲームを楽しむ光景を何度となく目にした。ラグビースクールとは幼稚園児から中学生までの少年少女、幼児たちを対象としたラグビーのクラブ活動である。記録はちょっと古くなるが、2004(平成16)年度の時点で日本協会へのチーム登録数が全国で387スクール。これを地域協会別のスクール数でみると、関東=152、関西=172、九州=63となっており、関西協会管内での数字が目をひくが、こうした数値にも3地域協会がもつそれぞれのバックグラウンドが映し出されていてなかなか興味深いものがある。例えば関東といえば戦前から関東大学対抗ラグビーや六大学野球など大学スポーツが中心。対する関西は中学(旧制)・高校(新制)のメジャースポーツのメッカといわれてきた。戦前、戦後を通して中学・高校ラグビーは甲子園南運動場あるいは花園ラグビー場を舞台とし、京阪神のジュニア世代の中に息づいてきた。現在の学制からみれば、ラグビースクール生たちはそうした高校ラグビーに直結する中学生、小学生、そして幼稚園児たちであり、学校スポーツとはまた違った方針で取り組むラグビー活動ではあるが、大なり小なりそれらメジャーなイベントの影響をうけていることも事実だろう。関西地区のスクール数が3地域の中で突出していたとしてもごく自然の結果といえる。
写真・図表
ラグビースクールの少年たちと日本代表の坂田選手

 このようにいまでは全国387を数えるまでに成長し、定着したラグビースクールではあるが、その生みの親は山口栄一であり、その発祥は1965(昭和40)年11月という。日本協会機関誌は「Sep. 1974 Vol.24−1」から「July 1977 Vol.26−6」まで4年間にわたって山口栄一の手になる「ラグビースクール生いたちの記」を連載している。内容は開講まえのいきさつにはじまり、途中経過、そして開講10年を経て全国指導者連絡協議会、指導者研修会発足に漕ぎつけるまでの報告で終るが、なんと全部で69項目という膨大なレポートである。山口栄一のラグビースクールに懸ける情熱がしのばれるが、日本のラグビー界で知らぬ者はないといわれる名言──「All for One One for All=皆が一人のために、一人がみんなのために」を日本のラグビー界に持ち込んだのも山口栄一その人である。東京ラグビースクールの少年たちが胸につけている楕円球のバッジにその名言をあしらったのが、公式にはそのはじまりといわれているが、山口栄一はそのいわれを「ラグビースクールの生いたち(4)」の冒頭で次のように記している。すなわち──
 「それにしても自主自律という言葉は判ったようで判らない言葉である。文字どおりに解釈すると自分で自分を戒めていくことであるが、自分を戒めるということは、自分を戒めるための羅針盤を心の中に持っていなければできないことである。自分に都合の良いことを考え、自分に都合の良いように行動して行くのは放縦であって、自主自律ではない。…」と前置き。さらに「イギリスのフェアプレーは日本の武士道の精神に似たものがある」と論じ、キリスト、カントの言葉、ウェストポイント(米国士官学校)のオナーシステム、ハーバード大学の格言にまで言及したあと「…全員の心の中に一つのものが流れていなければならない。そして、その流れに沿って夫々が独自の判断で、自発的に動かなければゴールは得られない。しかもその一人ひとりの動きが、全員が等しく、こうやってもらいたいと思っているような動きでなければトライに結びつかない。それがグラウンドの上の All for One One for All である…」と結論付けている。
写真・図表
関東ラグビースクールの練習風景(秩父宮ラグビー場)

 ラグビースクールは東京オリンピックの翌1965(昭和40)年11月に誕生した東京ラグビースクールをもってその嚆矢とするが、日本協会創立80周年記念祭の行われる2006(平成18)年11月は、スクールにとっても創立41周年ということになる。その間に巣立っていった卒業生の数は計りしれないほど多い。21世紀の日本ラグビーを背負って立つリーダークラスもおれば、TOPリーグで活躍する選手、そして故郷へ帰って古巣のラグビースクールで後輩たちの育成、指導にあたる縁の下の力持ち的存在もいる。日本協会機関誌は「JUL. 2003 Vol.53−1」号から「ラグビースクールに行こう」と題する連載企画をはじめた。4月に発刊された最新の「FEB. 2006 Vol.55−4」号で、連載も14回を数えるが、編集者がまずピックアップしたラグビースクールは鎌倉。以後、八王子、生駒(奈良)、かしい(福岡)、東大阪、ばってんヤングラガーズ(長崎)、浦和、周南(山口)、玖珠(大分)、佐野(栃木)、嶺北(高知)、佐賀、そして最新号の第14回は西東京とつづいてきたが、これら14スクールのレポートに目を通して感ずるのは「こどもたちにラグビーというスポーツを楽しんでもらう」という指導者たちの共通した指導方針である。四国といえばラグビー後進地域といわれるところ。そんな四国の高知県、それも山間(やまあい)にある人口わずか4800人の土佐町にも嶺北少年ラグビースクールというスクールの存在することを、機関誌の連載記事は教えてくれた。嶺北ラグビースクールの誕生は1985(昭和60)年というからことしは創立いらい21年目。全盛期には70人を数えた会員も現在では18人と激減しているというが、取材した藤本幸俊部員はこのスクール出身の川村圭佑コーチの言葉を「『できれば、子どもたちにはラグビーってこんなスポーツなんだ』、『ラグビーって面白いな』くらいに思ってくれればいい」と紹介している。そして藤本幸俊部員はこうも綴っている。「練習風景をひとことで表現すれば、のどか、です。ラグビーにもその土地の風土が現れるのでしょうか…」とも。しかし取材者の目には「のどか」に映った土佐町から地元の嶺北高校ラグビー部が花園での全国高校大会に出場したこともあるという。改めて日本ラグビーの底辺を構築するのはラグビースクールの存在であることを思い知らされる。
 このような手づくりのラグビースクールと対照的なのが企業ラグビーが運営するラグビースクールであり、その代表がトップリーグ加盟の有力チーム、ヤマハ発動機ジュビロのラグビースクールである。資料によると同ラグビースクールは今年で創立5年目。4月4日現在の申し込み状況は幼稚園年長から中学3年生まで約130人という。この数字は全国のラグビースクールでも有数の大所帯だそうだが、とくにヤマハ発動機ジュビロが強調するのは「3年目を迎える中学部は1年生から持ち上がってきた生徒が3年生に進級し、さらにレベルの高い練習内容になる」とのこと。この背景にはスクールマスターが昨年度のヤマハ発動機ジュビロを率いた佐野順ヘッドコーチはじめトップリーグの実戦経験が豊富なOB選手9人を、中学、小学部(幼稚園組を含む)に配置。さらにクラブチームのヤマハラガーやヤマハ発動機ジュビロの選手もサポートコーチに携わるという。もちろんスクール生の対象は磐田市を中心とした地域社会に住む子どもたち。ラグビーを通じて心身の成長と健康増進が目標で、豊橋市への遠征や中田島砂丘での海岸清掃活動もカリキュラムの中にはいってはいるようだが、コーチがボランティアであったり、コーチも生徒も会費1000円を出し合って運営をつづける町や村のラグビースクールとは、明らかにタイプの異なるラグビースクールであることは間違いない。ラグビースクールも今年度で41年目。時の経過とともに時代に即したスクールが生まれてくるのは自然の流れともいえるが、要はラグビースクールの活動が社会に溶け込み、そしてラグビーというスポーツが日本の国民から等しく愛される原点となってくれることである。
 そうしたことを意識したうえでのことか、どうか──。2005年8月発刊の318号から機関誌編集部は表紙にラグビースクールの少年を登場させるようになった。日本代表の赤白ジャージーを身にまとった少年たちの笑顔がすばらしい。ラグビーといえば日本代表、あるいはスターに片寄りがちの枠にはまった発想から一歩踏み出たこの制作感覚。最近のクリーンヒットといえるが、ここで強調しておきたいのは、この少年たちの笑顔には日本ラグビーの未来を暗示させるものがあるということ。それはラグビースクールでラグビーを楽しむことを覚えた少年たちの成長が、究極の課題ともいえる底辺拡大、あるいはジャパンの強化へと繋がっていくという点である。スクールで覚え、身につけた楽しむラグビーは彼ら自身の成長とともに、香山蕃のいう「ラグビーは楽しむものである。しかし、楽をすることではない」となり、ウェールズの名ウイング、ジェラルド・デービスの助言でもある「…勝利の瞬間だけを愛するのではなく、もっとラグビー自体を楽しんでほしい」(山口栄一)と変化していくことを期待したい。ラグビースクールの存在価値は楽しむラグビーを教えてくれることにつきる、というのが結論である。
日本協会が初めて公認した全国のラグビースクール】
全国のラグビースクール一覧表

 日本協会は1970(昭和45)年11月23日開催の臨時理事会で、全国1都1道2府16県25ラグビースクールの公認(上記表)を正式決定した。ラグビースクールが日本協会から公認されるのは今回がはじめて。