《揺れる大学ラグビー界》


 戦前の大学ラグビーは秋の5大学リーグ戦(1933年から7大学に拡大)、年末から年始にかけての東西対抗を中心に発展してきたが、戦後の学制改革による新制大学の急増で、それまで平穏に過ぎていた関東の大学ラグビー界に新たな問題が発生する結果となった。原因は7大学リーグと名乗ってはいたものの、新たに参加した東京商大(現一橋大学)、法大を除く5大学間、東西の大学対抗はそれぞれ定期戦だった点にある。この定期戦方式は戦後に大学ラグビーが復活後も継続してラグビーの人気を独占してきたが、一方で戦前派ながら定期戦からはずれていた法大はじめ日大中大など古参組が、戦後は強力チームとして復活。これに旧制の高等学校や専門学校から新制大学となった多くのチームが加わって関東の大学ラグビー界は参加チームが一挙に膨れ上がり、定期戦組対非定期戦組の対戦問題、秩父宮ラグビー場使用問題などを巡って対立が発生。現在の対抗戦グループとリーグ戦グループに落ちつくまで実に15年の歳月を要した。
【対戦方式を巡る対立と収束まで】
①対立が表面化(1954年度)
 日程会議(6月)で法政、中央、日本、教育(現筑波大)の4大学から「慶応、早稲田、明治、中央、日本、東京、立教、法政、教育、成蹊、青学の11大学の上位6大学を1部、残りの5大学を2部とし、それぞれリーグ戦とする案」が提出された。明治、中央、日本、法政、教育の5大学は賛成したが、慶應、早稲田、東京、立教、青学、成蹊の6大学が反対して対立が表面化。関東協会はとりあえず今季は従来の対抗戦方式継続を決める。
 これを不満とする明治監督の北島忠治は9月にはいって関東協会理事の辞任を表明。新たに明治、中央、日本、法政、教育の5大学でリーグ戦を結成するとともに▼試合は各校グラウンドを使用▼慶應、早稲田との対戦は自由▼明治は慶應、早稲田との対戦を無料試合とする─の3点を関東協会に通告。しかし協会は事態を静観するとともに、監督会も予定通りの日程でシーズンに臨んだ。
②慶・日全勝が戦わず(1955年度)
 慶應、日本ともにこのシーズンは全勝を記録。日本から対戦申し入れが慶應に行われたが、慶應は期末試験のため断る。
③A、Bブロック制となる(1957年度)
 関東協会の提案でA、Bブロック制を採用。Aの最下位とBの1位は自動的に入れ替わることが決まった。前年度の成績に準じて、Aブロックは慶應、早稲田、明治、日本、中央、立教の6大学。Bブロックは法政、教育、青学、専修、東京、成蹊の6大学となる。
④ラグビーは選手権時代へ(1960年度)
 ラグビー創始校慶應がAブロック最下位となり、来季のBブロック転落が決まる。またラグビー日本一を決めるNHK杯が3月に新設され、日本ラグビー界は選手権時代への出発点となる。
⑤慶應・早稲田がA、Bブロック交替(1961年度)
 慶應がBブロックで全勝、代わって早稲田がBブロックに転落。また慶應は定期戦でAブロックの早稲田、明治を連破する。
早稲田がBブロック全勝。上位の明治も倒す(1962年度)
 早稲田がBブロックで優勝。さらに定期戦でAブロックの明治にも快勝する。前年の慶應そして今季の早稲田と2年連続で下位チームが上位チームを破るという矛盾がつづき、ブロック制の在り方に注目が集まる。
⑦今季から対抗戦(条件付き)に復帰(1963年度)
 関東大学監督会議は5年間のブロック制を解消。新たに条件付きながら対抗戦方式の復活を決めた。条件の第1点は上位、下位各7大学とし、各グループ内で最低7試合を行うこと。そのうちグループ内4試合を義務試合、残る3試合の対戦相手は任意とする。そして第2点はシーズン終了の時点で監督会議が14大学の順位を決定する─というもの。
 なお、新設の日本選手権に出場する大学側のチームは日本協会が推薦することになった。
⑧対抗戦方式改めリーグ戦方式とする(1964年度)
 大学選手権が新設されたことで対戦方式を改正することになった。
 a)14大学をA、B2グループに分け、各グループ内リーグ戦とする。
 b)大学選手権の関東代表はA、Bグループの各1位チームとする。
 c)ほかにシーズン終了後、A、B1位チームによる関東大学王座決定戦を行う。
 d)Aグループ=法政、日体、中央、教育、青学、成蹊、防衛
   Bグループ=慶應、早稲田、明治、立教、東京、日本、専修
⑨再び対抗戦システムを(1965年度)
A、Bグループ制から再び対抗戦方式にもどったが、関東大学王座決定戦の復活は認められなかった。ただ、戦前とちがい加盟校が大幅に増えた戦後の状況でのこのシステム採用は、各大学が任意に対戦チームを選ぶため試合数にばらつきがでること。このため最終順位の決定、大学選手権の代表選考の2点に問題を残した。
⑩対戦方式で再び紛糾(1966年度)
 法政、中央、日本などリーグ戦方式グループから前年度の対抗戦方式是正の提案が出された。
 しかし、対抗戦を主張する定期戦側と意見が対立したまま合意に達せず、前年度方式の継続ということでシーズンに突入した。いろいろ思考錯誤を繰り返してきた対戦方式ではあったが、結局は13年前の振り出しにもどった形となった。
⑪関東大学は対抗戦とリーグ戦に分裂(1967年度)
 対抗戦方式否定の法政、日本、中央、専修、防衛、東洋、国士舘の7大学が関東学生連盟を結成。これに大東文化を加えた8大学によるリーグ戦実施に踏み切った。しかし統括機関の関東協会は新連盟を承認しなかったものの、大学選手権には対抗戦グループの上位2校のほか、未承認の新連盟上位2チームを関東代表と決定するなど、柔軟姿勢で対応することで話し合いによる解決の道を残した。
⑫関東大学の対戦方式が全面解決(1968年度)
 関東協会は懸案となっていた関東大学の対戦方式について、新設の大学評議会で話し合った結果、下記の3点を条件に14年間にわたる対立問題に終止符をうつこととなった。
 a)関東協会が承認しないまま前年度に結成された学生連盟の廃止。
 b)対抗戦とリーグ戦の両グループを完全分離し、それぞれのグループで日程を作成する。
 c)大学選手権の関東代表(4校)は、両グループの上位4校による交流試合の勝者とする。
 対抗戦グループは早稲田、慶應、明治、立教、東京、日体、教育(現筑波)、青学、成蹊、成城の10校で従来の対抗戦形式を継続することになり、リーグ戦グループは法政、日本、中央、専修、防衛、東洋、国士舘、大東文化の8校でリーグ戦形式の総当り戦を行うことになった。
 その後、対抗戦グループには、明治学院、学習院、帝京、一橋、上智、武蔵の6校が加わり対抗戦形式を維持していたが、平成9年に上位8校のAグループと下位8校によるBグループに区分してグループ内総当りのリーグ戦形式を採用して現在に至る。また、リーグ戦グループも拓殖、関東学院、千葉、千葉工、玉川、神奈川等が加入し、関東大学リーグ戦と称し1部8校から構成され、現在6部46大学が参加して覇を競っている。