かつて社会人ラグビーで名をはせた多くのOBたちにとって、2003(平成15)年1月25日という日は、忘れることのできない1日となった。この日は第55回全国社会人ラグビーフットボール大会の最終日。会場の国立競技場では決勝のサントリーvs.東芝府中戦が行われ、サントリーの2連覇達成(38-25)で2003年度大会の幕を閉じるとともに、55年という半世紀を越える大会そのものの歴史も終焉を迎えた。サントリーの優勝監督土田雅人は試合後のインタビューで「歴史ある大会の最後に、サントリーのようなまだ創部20年のチームが名を残せたことに意味があったと思います」と、感慨深げに優勝の喜びを語っている。こうして55年の歴史とともに社会人大会は2003年度からプロフェショナル時代の象徴ともいうべき「ラグビー・トップリーグ」へとバトンを引き継ぐこととなったが、決勝戦にさきだちフィールドでは全国社会人大会貢献への表彰が主催者の日本協会、朝日新聞社によって行われ、表彰チームには記念のプラークを贈り、ひとつの時代が終ったことを象徴するセレモニーではある、特別表彰の近鉄、新日鉄八幡、新日鉄釜石、神戸製鋼の4チームはもとより、この日の式典に出席したすべてのチームは、日本ラグビー発展の証人であり、また歴史そのものである。
特別表彰
出場10回以上優秀チーム代表
近畿日本鉄道(近鉄)ラグビー部
最多優勝
新日鉄八幡ラグビー部 12回
最多連続優勝
新日鉄釜石ラグビー部 7回
最多連続優勝
神戸製鋼ラグビー部 7回
最多出場
近畿日本鉄道ラグビー部 53回
最多連続出場
近畿日本鉄道ラグビー部 50回
式典出席チームと出場回数
近畿日本鉄道 53回
トヨタ自動車 50回
三洋電機 36回
神戸製鋼 34回
リコー 32回
新日鉄八幡 30回
大阪府警 30回
釜石シーウェイブス(旧新日鉄釜石)30回
九州電力 28回
東芝府中 26回
三菱自動車京都 24回
京都市役所 22回
マツダ 21回
新日鉄室蘭 19回
三菱重工長崎 18回
ワールド 7回
サントリー 16回
三井精機 16回
NEC 14回
横河電機 12回
善通寺自衛隊 11回
栗田工業 10回
第1回大会は全国実業団ラグビー大会の名称で、日本協会主催、朝日新聞社後援という形のもとに創設された。1949(昭和24)年2月25日のことである。大会といっても終戦直後の混乱期時代のこと、出場チームは3地域協会を代表して関東から東芝、関西から近鉄、そして九州から配炭公団のわずかに3チーム。1回戦不戦勝の配炭公団が東芝を破って勝ち上がってきた近鉄を57-3の大差で破る圧倒的な強さを発揮して初代チャンピオンの座についたが、この優勝は、またこの大会で九州代表チームが8年連続優勝という九州勢黄金時代の幕開けでもあった。
やがて大会名称は1952(昭和27)年度の大会から、戦前の名残ともいうべき「実業団」から「社会人」へと改称。出場チームも第2回大会では7チーム、第3回大会では8チーム、そして朝日新聞社が共催となった1956(昭和31)年度には一挙に16チームと拡大し、社会人ラグビー発展の基礎ともなった。この16チームによるトーナメント方式は1994(平成6)年度の第47回大会まで続いたが、翌48大会からワールドカップ方式にならって予選リーグの導入という新しい対戦方式へと移行する。その内容は16代表を4組に分け、各組で総当りのリーグ戦を行い、上位2チームが決勝トーナメントに進んで優勝を争うシステムであるが、社会人ラグビー50年史によると、①各チームの「試合数を増やして欲しい」という要望があったこと ②トーナメント形式では、年を越して活動を続けられるのは、準決勝に残ったチームだけ。ようやく本格活動にはいる時期にもかかわらず、大会の前半段階で敗退すればシーズン終了となってしまう ③新方式では参加チームが最低3試合対戦できる ④会場を各地に分散することでラグビーの普及発展、強化にもつながる―などが試合形式改正の主たる理由だったという。
このW杯システムが導入された1995(平成7)年度は神戸製鋼の8連覇がかかった年度。大会は12月16日の開幕から年を越えて2月11日の決勝まで2カ月にわたるロングランとなったが、数多くのドラマが生まれた話題の年度でもあった。なかでもスタンドの興奮が頂点に達したのは決勝トーナメント1回戦で対戦した神戸製鋼-サントリー戦。試合はサントリーが永友のPG成功で同点に追いつく劇的な展開となったが、1988(昭和63)年度に設けられた「同点の場合は、トライ数の多い方に次の試合への出場権が与えられる」という規定により、神戸製鋼8連覇の夢は無残にも消えてしまった。無情のトライ数はサントリーが2、神戸製鋼1。史上初の8連覇をほぼ掌中にしながら、神戸製鋼は最後の最後で逃してしまった。あまりにも大きなペナルティーの代償ではあった。また、サントリーは三洋電機との決勝戦でも27-27のタイスコアで引き分け、同点優勝を果たしている。強運のサントリーではあった。
サントリー20(3-11、17-9)20神戸製鋼
日本協会副会長兼関東協会会長(当時)小林忠郎が全国社会人大会50年史への寄稿で、社会人ラグビーの歩みについて苦しかった時代を述懐している。ここに要旨を引用させてもらった。
「…この大会もこうして回を重ねていくが、どうしたことか観客動員がうまくいかない。ファン、大衆にアピールしてない。あれやこれやで後援社の朝日新聞社内でも、こんなものを後援するより他にもっといいものがあると言う声が出ていることを聞き西野綱三に間い合わせたら『うん、そんな声もあるな』とのこと。早速、品田通世と一緒に朝日新聞社を訪問、例の品田理論を本人が静かに訴えた。『もう少し待ってください。いまは大学の試合に押されているが近い将来必ず社会人チームのゲームがファンにアピールし大観衆を集めラグビーは社会人だ、と言う時代が必ず来ます』。この訴えを聞いてくださったのがどなただったか全く覚えていないがそれから間もなく第9回大会から朝日新聞社が格を上げてくれ後援から共催になった。少し時間がかかったが50回大会を迎えた現在はもう大学から社会人に移っている。…」―と。
品田通世のいう「近い将来必ず社会人チームがファンにアピールし大観衆を集め…云々」は単なる願望ではなかったようだ。社会人大会50年史にも「…この大会(1961年度の第14回大会)は連日数千人のファンを動員し、大盛況だった」とあり、八幡製鉄・近鉄時代を経て戦国時代、そして1980年代の新日鉄釜石7連覇の時代には「ラグビーのグラウンドに女性の姿が目立ち始め。…10年前までは、ほとんど見かけなかった光景だ。大会4日間を通じ、観客は延べ2万8千人。1日平均7千人と、大学の試合に負けない数を動員した。決勝戦にはダフ屋が出没するほどで、確実にファン層は広がりを見せ始めた」とまで記されている。そして品田通世の予見が現実となったのは1992(平成5)年度の第45回大会。神戸製鋼の5連覇達成が成ったこの年度の決勝戦は、冷たいみぞれの中で挑戦者東芝府中に1点差まで追い込まれる文字通り薄氷を踏む勝利ではあったが、悪天候にもかかわらず秩父宮ラグビー場のスタンドは超満員。社会人大会50年史も「…社会人ラグビーの人気はすっかり定着した」の言葉で、この年度の記述を締め括っている。
多くの先人たちが血と汗で育て、築き上げてきた社会人ラグビーではあるが、世界を覆うオープン化(注)の波はトップリーグヘの移行を余儀なくさせた。これが21世紀の潮流というなら、それも致し方ない転向と諦めざるをえないが、社会人ラグビー55年の歴史を閉じるにあたって、どうしても触れておかなければならい―というより、後世に伝えておかなければなないことが一つある。それは社会人ラグビーが「仕事とラグビーの両立」のもとに発展してきたことだ。九州ラグビー協会会長土屋俊明が社会人大会50年史に寄せた祝辞の中で、仕事とラグビーの両立を貫いてきた自らの信念と、選手時代の熱い思いを一文にまとめている。その要旨を紹介させていただく。
(注)「オープン化」とは、プロにも門戸を開くという意味であり、アマチュアとプロが共存することを示す。
「…あのころの八幡ラグビー部の誇りは、仕事との両立にこそあった。高校や大学ラグビーの一流で嗚らした者は、やはり仕事でも、一般社員には負けたくないと考えるものである。考えるというよりは、本能に近いのかもしれない。勤務をしっかりと終え、最先端の夜間照明のもと激しい練習を繰り返した。目標はただただ社会人大会制覇である。
過去は常に美化される。『自慢話』と差し引かれても仕方ないが、優勝したあとに計画された地元でのパレードを『浮かれている場合ではない』と自主的に辞退した。大会直前でも、会社が理解を示した早退練習を返上して、いつものように仕事をこなした。とにかく融通が利かないくらい潔癖で純粋だった。
『仕事でも負けていない』『社会人として後ろ指指されるような落ち度はない』このプライドが近鉄との苦しい試合のあいだも我々を支えていた。そしてそれは近鉄、さらには多くのチームもおそらく同じだった。つまり、アマチュアリズムが社会人ラグビーの誇りであり神髄だったのだと思う。…」(要旨=社会人大会50年史から)
土屋俊明も文中で指摘しているように、ライバルの近鉄も「選手が入社してくると、駅の改札係りから車掌…と一般入社組と全く同じ待遇だった」という話を耳にしたことがあるが、近鉄については、またこんな逸話も聞かされたことがある。それは「東京のある大学で主将までつとめたスター選手が社命で車掌をすることになったが、シャイなそのスター選手は毎日が身の縮む思いだった」とか。こうした勤務とラグビーの両立についての逸話はまだまだいくらでもある。神戸製鋼しかり。かつてリコーの主将でもあった日本代表の伊藤忠幸が「仕事とラグビーの両立が我々の誇りだった」と、八幡製鉄の土屋俊明とまったく同じ言葉を語っており、また社会人大会50年史編集者の「時代は変わりましたが、仕事とラグビーの両立は可能ですか」との問いかけに「いまもリコーはそれを守っている」と明快に答えている。
土屋俊明によれば「オープン化に踏み切った強豪国での、このところの(20世紀末)大きな課題は『ラグビーの伝統と文化』とプロフェショナリズムを、いかに両立させるかだそうだ」となる。日本ラグビーでいうなら、その格好の舞台はオープン化のトップリーグ所属チームとアマチュアの代表格大学ラグビーが参加する日本選手権ということになるのだろうが、多分に多面性を内臓する21世紀のラグビー界はまだ始まったばかり。スポーツの世界を2分するプロフェショナルとアマチュアの世界が今後どのような展開をみせるのか。日本協会にとっても難しい問題ではある。