日本ラグビー界に「全国学生選手権」が創設されたのは1964(昭和39)年度の新春だった。史実によると発足当初の名称が現在に至る「全国大学選手権」と変更されたのは、1969(昭和44)年度の第6回選手権からとなっているが、名称はともかくこの選手権を語るとき何をおいてもまず触れなければならないのは、1982(昭和57)年度にはじまった同志社大学の3連覇である。選手権42年の歴史で2連覇を記録しているチームは多い。大会初期の第2回、第3回を連覇した早稲田は第11回選手権までになんと3度の2連覇を記録しているが、法政に1度、明治には2度にわたって3連覇を阻止されている。そして、早稲田の偉業を未然に絶ち切った明治ではあるが、その明治も第28回、第29回と初めて連覇を達成、第32、33回にも連覇しながら、やはり2度にもわたる3連覇の夢を、法政、関東学院のリーグ戦グループ勢にストップされている。ここまでは伝統校同士が繰り広げた3連覇への挑戦ドラマであるが、最近になって3連覇を巡る闘いは戦後派の中の後発組といってもよい、20世紀末から21世紀初頭にかけて台頭してきた大学ラグビー界の新勢力関東学院の参入によって様相が変わってきた。
まず、1997年度の第34回選手権に初優勝した関東学院は、余勢をかって翌1998年度第35回選手権も制して2連覇を達成。その勢いからは早稲田、明治の伝統校を差し置いて同志社の偉業に並ぶのでは…とみられたが、このときは創部100周年のラグビー創始校慶應に敗れ、1年おいた第37回、第38回の連覇で再び3連覇に挑んだが、2度目のそれは早稲田の前に涙を飲んだ。当時の3代にわたる主将が卒業後は日本代表入りするという関東学院の充実し切ったチーム力をもってしても、伝統校の意地と底力には勝てなかったということか。そして今年度の第43回大学選手権は日本協会創立80周年という記念の年の大会でもある。31年ぶりに4度目の連覇を果たした早稲田が悲願の3連覇に挑むことができるかどうか。名将清宮が去った早稲田だが、それだけに今季の動向が注目されるのはいうまでもない。
さて、ここまでは大学選手権3連覇を目前にした名門、強豪たちの挫折の歴史を綴ってきた。大学ラグビーで3年連続して王座につくことの難しさは、戦前に東西大学定期戦も含めて京都大学、関東の7大学リーグで明治と2度の記録が残っているが、現在の大学選手権とはともに条件が違う。戦後の大学ラガーマンには4年間という時間しか与えられていない。それでも同志社は至難とも思える大学選手権3連覇をやってのけた。新日鉄釜石が、神戸製鋼が社会人大会、あるいは日本選手権でそれぞれ不滅の7連覇を達成しているのとも根本的に条件が異なる。関西協会理事で、大学委員会委員長溝畑寛治の記述(協会機関誌)を引用させてもらう。いずれも第35、第36回大会の総括原稿の文中に記されたもので、同志社の3連覇とは関係ない。しかし「学生という立場で一年一年新しいチーム作りをしなければならない条件下のもとで体力・技術・精神力など総合的な力を向上させることは大変なことである…」と、学生ラグビーの厳しい現実にふれ、さらには別の号で「首都集中型の日本では大学数にも数段の違いがあり、関東の2リーグに対しての関西の1リーグでは厳しいゲームをする対戦相手にも恵まれない違いがある」と、地域差について述べている。この2つの指摘―。考えようによれば3連覇達成時の同志社にも通じるように思えてならない。あの同志社をもってしても日本選手権で新日鉄釜石の壁を打ち破れなかったことの理由にあげても不自然ではないし、また過去42回の大学選手権で関西勢の優勝は同志社の3連覇を含めた4度あるだけ。38回というものはすべて関東勢独占の記録を読み解くひとつのカギである。
それだけにかつては互角だった社会人と大学の実力も新日鉄釜石の登場とともに、じりじりと両者の間に格差が生じていったのも否定はできないが、ここで前述の社会人ラグビーの項を思いだしていただきたい。神戸製鋼7連覇の門出となったV1フィフティーンのうち、同志社初優勝、そして1年おいた3連覇のメンバーなど同志社出身の選手10人で固めていたことを…。まだある。1980年代後半から90年代にかけての日本代表メンバーに占める彼らの存在。限られた年数から解き放たれた逸材たちが、社会人ラグビーという新天地を与えられて、持てる力を存分に発揮した結果が日本代表の座だったというわけ。早稲田が、明治が、関東学院がチャンスをつかんでは挑戦するが、同志社に追いつき、追い越せなかったのも、大学レベルという単位だけでは測れない、当時の同志社は類い稀な素材の集団だった。
【同志社大学初優勝&3連覇・栄光にフィフティーン】
この同志社3連覇にまさるとも劣らない偉業といえば、やはり早稲田ラグビーが42年という半世紀に近い大学選手権の歴史に刻み込んだ記録の数々だろう。優勝13回、うち2連覇4回、そして準優勝13回を含めた決勝進出26回はいずれも大学選手権の最多記録である。この早稲田を追うのが明治ラグビー。優勝回数11回、そのうち2連覇が2回あり、優勝、準優勝を合わせた決勝進出回数でも20回と、すべての部門で早稲田に次ぐ第2位を占めており、早明両校の優勝回数を合計すると24回。そのうち早明の直接対決が9回あり、意外にもここでは明治が6勝3敗と大きくリードしている。しかも早稲田の3勝は第10回、第11回、第13回と1970年代前半に記録したもの。第18回選手権決勝での直接対決に21-12で敗れて以降、第27回、第32回、第33回と3度の決勝対決のすべてに敗れている。このように早稲田の選手権決勝での敗戦を統計すると、対明治の6敗が最多。対法政に3敗、対関東学院に2敗、日体、大東文化に各1敗という記録が残っているが、対戦成績で負け越しているのはライバルの対明治だけ。法政、日体、大東文化とはすべてイーブンという記録が残っている。ここ5年間の決勝は早稲田と関東学院の対決がつづく新旧対立の構図となっているが、現時点では早稲田の2勝3敗。1997(平成9)年度の初優勝いらい3度の2連覇をはたしている大学ラグビーの新しい実力派関東学院は第43回大会(2006年度)を制し、早大との決勝対決を4勝2敗とした。いずれにしても大学選手権の歴史を語るとき、どうしても避けて通れないのが同志社大学の3連覇であり、43年間にわたる選手権で営々と積み重ねてきた早稲田の足跡といえるだろう。現状で早稲田がマークしている各種の記録を塗り替える可能性をもったチームといえば、明治をおいて他に見あたらないが、それには1991(平成3)年度から1997(平成9)年度までの7年間に2度の2連覇を含む5度優勝を果たした当時の明治ラグビー復活が求められる。大学選手権が第30回を迎えた1993(平成5)年度に日本協会名誉総裁三笠宮寛仁親王殿下から戴いた「三笠宮寛仁杯」最初の授賞チームは、1月6日の決勝で10度目の優勝をとげた明治大学だった。
この日、三笠宮さまにはわざわざ国立競技場に足を運ばれ、明治大学-法政大学の決勝戦を親しくご観戦。試合後に行われた表彰式ではわざわざグラウンドに立たれてチャンピオンチーム、明治大学の元木主将に「寛仁親王杯」と刻まれたカップをみずから授与された。日本協会機関誌は「明治大学が最初に戴いたことを大きく日本ラグビー史に残しましょう」と、記念の日を記している。
なお、全国大学選手権の優勝チームに贈られるカップ、トロフィーは「寛仁親王杯」のほか、NHKトロフィー、ニュージーランド大学評議会杯、英国航空杯などがある。