全国高校大会は2005年度で回を重ねること85回。出場校も51校とふくれあがって、いまでは
日本のラグビー界をがっちり支える大木の一本にまで育った。こうした高校ラグビーの発展について、
日本ラグビー史も「…社会人チームと高校チームの増加が目立ち、
日本ラグビーの中核がここにある事実を裏書している」と指摘したうえで「むかしの社会人チームが、おおむね大学、高専出のO・B・で組織せられていたのに対し、高校を卒業して、すぐ職場に入った若いラガーメンがチームに加わる割合がだんだん多くなってきた。そして、社会人となってからもその技術をのばしつづけ、もし大学へ進学したら、さぞかし著名な大学選手になったであろうと想像される立派なプレーヤーが輩出してきた。…」(原文のまま)と、選手層の広がりについて記している。極論すれば「大学ラグビー=
日本ラグビー」と思われていた戦前からは想像もつかない
日本ラグビー多角化への進展が、1964(昭和39)年頃にはすでに
日本協会役員の念頭にあった。
もちろん、戦後の出発点となったのは1947(昭和22)年1月に西宮球技場でいち早く再開された第26回全国中等学校大会である。当時の大会パンフレットには「主催:
日本ラグビー蹴球協会」、「後援:毎日新聞社」の一段と大きな活字表記とともに、大会日程、大会役員一覧が記載されているが、大会会長香山蕃はじめ総務委員、審判委員、記録委員、競技委員ら大会運営に携わったメンバーすべて、この
日本協会80年史に戦前から協会役員として、あるいは選手として登場したラガーマンばかり。まさに
日本ラグビー界の総力を結集した復活大会ではあった。「…住むに家なく、着るに衣服古く、また食するに食物を求めて明日への希望も抱くあたわざる日々とあって流石にスポーツどころではなく、国民は最低生活の維持に全精力を費やさざるを得ない毎日であった。このような情勢下にあっても楕円のボールを追ってひたすらに走り、相い集う醍醐味えの思慕もだし難く、あらゆる悪条件を克服して、老いも若きも伝統ある本大会の復活に尽力し、遂にここに場所も西宮に代えて第26回大会を開催することが出来たのである。…」―と。(全国高等学校ラグビーフットボール大会50年誌から抜粋:原文のまま)
21世紀の今日では想像もつかない世相の中で復活した全国中等学校大会ではあったが、旧制中学の大会としては翌年の第27回大会(西宮球技場)まで。1948(昭和23)年春に実施された学制改革にともない、それまでの5年制中等学校は各3年制の高等学校と中等学校に分割スタートすることになった。全国中等学校大会を引き継いだのはもちろん旧制中学時代のシニアともいうべき3年生以上が対象となる新制の高等学校。そして大会そのものも、これを機会に①
日本協会が主催し、それまで主催者として大会を育て、運営してきた毎日新聞社(大阪)は主催からはずれる②大会会場を東西隔年とし、初年度は東京ラグビー場(現秩父宮ラグビー場)で開催する―こととし、高校大会初年度の第28回大会は初めて東京で開催されたが、結果的には高校大会の東京開催はされたが、次の第29回大会からは再び馴染みの深い西宮球技場に戻し、毎日新聞社の後援を受けることになった。
ところで、高校大会の会場として西宮球技場が最適だったのは、グラウンドが3面使えたことである。この点は現在の花園ラグビー場にも共通する高校ラグビーの大会会場としては最大の利点といえるが、1950(昭和25)年の第30回大会から予選の地区を16と倍増できたのも3面のグラウンドを持つ西宮球技場だったから。さらに大会は1956(昭和31)の第36回大会では出場チームが32校、そして1971(昭和46)年の第50回大会では出場50校にまで膨れ上がった。この間、1963(昭和38)年の第42回大会からは、会場を花園ラグビー場に移して今日を迎えているわけだが、戦後16年にわたって会場となってきた西宮球技場を去ることになった理由は、名神高速道路が球技場を横切ることになったため。国の道路行政とはいえ戦後の
日本ラグビー復活に大きな貢献をしてくれた西宮球技場の消滅は、高校ラグビーにとってひとつの時代が終ったということである。
なお、第77回全国高校大会決勝の日の1997(平成9)年1月7日。園學院久我山と伏見工の激闘の余韻が残る花園ラグビー場で「第26回全国中学大会50周年」を記念するオールドラガーマンたちの集会が開かれた。第26回大会といえば、まだ戦災の傷跡も生なましい1947(昭和22)年1月、全国中学大会が4年ぶりに復活した戦後初の大会であり、
日本ラグビー界にとっては忘れることのできない記念の大会。全国8地区から集まった老童70余人が、それぞれ思い出多い母校のジャージーに袖を通してランニング・パスやキックに汗を流した。