《三地域対抗ラグビー》


 三地域対抗が戦後のラグビー界の頂点に立つ最高の試合であり、ラグビー発祥の英国4ホームユニオンとフランスが参加する5カ対抗をイメージしたものであり、また、その前身が1928(昭和3)年2月の第1回東西対抗にあることを、日本ラグビー史は伝えている。その記述によると「…この対抗試合の淵源は東西対抗にあり、この機会に秩父宮盃を賜った事情についてはさきにも述べた。戦後昭和22(1947)年西部協会が分割されて、九州一円を統括する九州協会の新設をみ、西部協会は関西協会と改名し、日本協会の支柱は3本脚になった。したがって従来の東西対抗が3地域対抗に改められ、23年3月21日福岡春日原グラウンドで、関西対九州の最初の対抗試合を挙行した。…」(原文のまま)とあり、東西対抗の流れを汲む三地域対抗ラグビーの優勝チームに総裁秩父宮杯が贈られていたことをみても、日本ラグビー界最高の試合だった。
 その秩父宮杯まで戴いている三地域対抗ラグビーが1967(昭和42)年度の第21回対抗を最後に終焉を迎える。歴史的なこの年度は関西代表が3度目の優勝を記録した年ではあるが、日本選手権は第5回、大学選手権(第4回)は早法対立最後の年度。早稲田に3点差で競り勝った法政が11-8で2度目の大学チャンピオンとして社会人優勝の近鉄日本一を争った。結果は近鉄が27-14のスコアで日本選手権2連勝、2度目の優勝をとげてはいるが、まだまだ大学勢と社会人の優劣が均衡していた時代である。しかも、三地域対抗の実施時期にも課題があった。大学と社会人の王者が1月15日(当時は成人の日)に日本一のタイトルを賭けて激突する日本選手権後のラグビー界はいってみれば空洞状態。2月~3月にかけて行われる三地域対抗が、往時の盛り上がりに欠けたとしても致し方なかったといえるだろう。21世紀のいまでは、時代の趨勢に押し流された三地域対抗ラグビーととらえるのが妥当なのかもしれない。
 そうはいっても、日本協会設立時代に、三高、京都大学を通じて、日本ラグビーの競技ルール確立に功績のあった巌栄一(後に日本協会副会長、関西協会会長)が、1967(昭和42)年9月発行の日本協会機関誌に「ズバリ、腹にあることを」と題した寄稿文の中で、三地域対抗ラグビーの廃止について次のように反対意見を堂々と述べている。その成否は別として、戦後の日本ラグビー復活に意を注いだ指導者を代表する貴重な意見として要旨を転載しておきたい。
 「…次はコンバインドチーム軽視の風潮である。具体的には選手権決定後の三地区対抗戦は意義がないと云う考えがマスコミのみならず協会内部にすら相当有るということ、之が私にはどうにも肯けない。端的にいえば優秀な選抜チームによる真剣なマッチを権威づけること、之が技術向上の最捷径だというのが私の持論、早い話本場英国でも最高のインターナショナル(現在の6カ国対抗を指す)これは純然たる選抜チーム、剣牛両大学のブルーもカレッジの綜合チームであるし、ニュージーランドの其の他でも同様、州代表其の他代表チームに選抜されることはラガー(マン)の誇りでありその最終目標はオールブラックスに選ばれることである。身近な話、つい今春来日して胸のすくような見事なプレーを見せて呉れたニュージーランド大学選抜など最も好い例だと思う。敢て三地区対抗に拘る訳ではないが、何かの形で権威ある選抜チームの試合を存続すること之が私の切実な希いである。…」(原文のまま)
 この巌原稿の指摘がきっかけとなったのか、どうかはともかく、日本協会機関誌の関東協会コーナーには「1978(昭和53)年2月に関東社会人選抜チームと学生選抜チームが、2月12日に関西選抜チームと対戦するため、関西遠征することが決定されました。尚2月26日には、全九州と対戦するべく、九州遠征も予定されています。…」との記事が掲載されている。内容的には、非公式ながら事実上の三地域対抗ラグビーの部分的復活ともいえる関東協会の決定といえるが、そのことをより確かにするのが「…地域協会でも協会代表チームを結成し、最終的に日本の強化につなぐ。このため昭和43年以来なくなっている三地域対抗復活の気運とともに…」と記されている関東協会情報の前段である。少なくとも地域協会内部では、1970年代後半に三地域対抗の復活が話題となっていた表われといえるだろう。そして三地域対抗ラグビーは17年の空白の後、1985(昭和60)年度の第22回対抗から復活し、今日を迎えている。