《ダークブルーの次はライトブルーのケンブリッジ大学》


 オックスブリッジ両名門校の招聘についての逸話を記しておきたい。何故なら両大学は学間、スポーツなど、あらゆる点で永遠のライバル関係にあることは、日本でもつとに知られてきたことではあるが、それだけに招聘の順がオックスフォード、ケンブリッジとなったことについて、当時の日本協会理事長香山蕃(後に会長)が貴重な証言を残している。それによると「…イギリス本国より代表チームを日本へ迎える計画をたて、まずオックスフォード大学並びにケンブリッジ大学に対して来日の可否を問い合わせたところ、最初にオックスフォード大学から応諾の回答を受けたのでオックスフォード大学に対し正式の招待状を出したところ、その後にケンブリッジ大学よりも応諾の解答を得たので御承知の通り昨年オックスフォード大学チームを迎え、引き続いて今年ケンブリッジ大学チームを迎えることになったのであります」とある。
 ただ、早稲田ラグビー六十年史が伝えるオックスブリッジ両大学招聘記事の内容も大要ではほぼ同じといえるが、ひとつ異なる点というか、香山原稿がふれてない点に言及しているのは「…ケンブリッジ大学、オックスフォード大学、それに両校混成チームと三様の招待状を出した。しかし、待つ身のつらさというか、いずれからも応答はなく、気をもむことしきり、やっと6月に入ってから、まずオ大から応諾の通知があり、直ちに朝日(この企画の後援新聞社)は社告をもって9月に来征を発表した。続いて、ケ大からも回答があり、困りもしたが、次年に、また混成チームは昭和34年に招くことになった」(早稲田ラグビー六十年史から)と交渉の詳細について記述している点である。いずれにしても、日本協会の財政事情を勘案すれば、遠くラグビー創始国から2年つづけて名門大学を招聘することなど、及びもつかない破天荒の計画といえたが、それが実現できたということは偏に朝日新聞社の理解と協力なくしてはありえなかったといえるだろう。
写真・図表
1953年に来日のケンブリッジ大学のプログラム

 また前年のオックスフォード大学来征時もそうであったが、今回のケンブリッジ大学の来日でも、東京はじめ京都、福岡、大阪、名古屋と全国8試合の試合会場は満員の盛況ぶり。第4戦の対全早稲田戦では当日券売り場ににファンの長い列ができてキックオフを10分遅らせるなど、日本協会にとっては後援の新聞社に助けられ、そして全国のファンに支えられてオックスブリッジ両大学招聘は、未曾有の人気を呼び、かつ大成功のうちに終ることができた。
 しかし、オックスフォード大学とのシリーズで露呈した日英両国の実力差を、今回のケンブリッジ戦ではさらに思い知らされることとなる。8戦して全敗。日本代表との2度にわたるテストマッチはいわずもがな。もっとも期待された全早稲田が後半に崩れて0-30と唯一のゼロ敗を喫するなど、関係者、ファンにとっては予想外の展開だった。前年の対オックスフォード戦で敗れはしたが、スコアは8-11。それもノーサイド寸前にオックスフォードがFEのDGで早稲田を振り切る劇的な幕切れだっただけに、1年後のゼロ敗は信じられない結末ではあった。早稲田ラグビー六十年史は「…後半、体力的な差が現れ、FWの動きが鈍った。…」と敗因を分析するとともに「ケ大は前年のオ大戦の成績から早稲田に最も重点をおいて試合に臨んだ」とも記している。早稲田ラグビーにとってはショッキングな敗戦だったといえるが、それはともかくオックスブリッジ両大学がグラウンドの内外でみせてくれた技術、マナー、そしてノーサイド後の在り方など、日本のラグビー界は多くのことを両大学から学ぶことができた。外国から戦後初めて招く大学チーム招待の選択という点で日本協会の判断に寸分の狂いもなかったことを、この80年史に記録として留めておきたい。
ケンブリッジ大日本ツアーの戦績〕
①9月9日(西京極競技場)
 CURUFC 32-3 全関西学生
②9月13日(東京ラグビー場)
 CURUFC 14-3 全慶應義塾
③9月16日(東京ラグビー場)
 CURUFC 26-14 全明治
④9月20日(東京ラグビー場)
 CURUFC 30-0 全早稲田
⑤9月23日(平和台競技場)
 CURUFC 16-12 九州代表
⑥9月27日(花園ラグビー場)
 CURUFC 34-11 日本代表第1テスト
⑦9月30日(瑞穂ラグビー場)
 CURUFC 21-9 関西代表
⑧10月1日(東京ラグビー場)
 CURUFC 35-6 日本代表第2テスト
(注)CURUFCはケンブリッジ大学ラグビーフットボール・クラブの略