オックスブリッジ両大学に次いで1956(昭和31)年2月に来日したのが豪州大学選抜(AURFC)である。戦後派には初めて接する南半球からのチームではあったが、この80年史の戦前編で前述したように、AURFC今回の来日(1933年2月)は2度目のこと。戦前はまだ発展の途上にあった日本ラグビー飛躍への、また今回の後輩チーム来日には戦後の日本ラグビー復活へのそれぞれ手がかりをつかむという、日本にとって豪州ラグビーは進歩、発展への恩人であり、級友であり、指導国でもある。日本協会会長香山蕃も歓迎の辞を述べている。「…22年前マーチン監督以下二十数人の諸君の先輩たちを、初めて迎えることができましたが、ラグビーを通じて結ばれた友情は百年にも優る深さを持ったのであります」―と。
その「百年の友情にも優る」豪州の大学選抜チームが日本遠征で刻みこんだ記録は9戦8勝1敗。日本ラグビーはオックスブリッジ両大学につづいて3度目の来日チームから初めて1勝をあげることができた。殊勲の大学チームは6試合目に対戦した北島忠治率いる全明治大学。「…8人を加え、全日本クラスの実力を備えていた。負傷者が続出、7回もゲームが中断する激しいというより荒々しい試合だった…」(明治大学体育会ラグビー部史)。得点は全明治の12-11。わずか1点差というきわどい勝利に映るが、トライ数の比較では明治が4本に対し、豪州は2本。僅差となった理由は全明治にコンバージョン成功がなかったのに対し、豪州には後半の1トライとゴールに成功したことがあげられる。
ともあれ日本代表が平和台、秩父宮、花園と3戦しながら、いずれも敗れていることを考えると、日本チームのトップをきって来日の外国大学チームからあげた全明治1勝の意義は大きく、日本のラグビー史に燦然と輝く金星といえるだろう。
確かに主将ツースは「FBとしては豪州No.1」といわれた国際級の選手。日本ではFE(日本でいうSO)としてチームをリードしていたが、評判通りの技術と知性を兼ね備えた名主将であり、選手であった。またWTBあるいはFBとして登場したフェレプスのスピード、守りも同様にインターナショナルにふさわしかったが、豪州大学選抜といってもシドニー大学とクインーズランド大学のコンバインドチーム。それも監督のK.ウォルシュを含めてシドニー大学が18人、ライバルのクイーンズランド大学は7人というアンバランスな連合チームだった。オックスブリッジ両大学に比べて、もうひとつ「個性」に欠けていた理由かもしれない。
しかし、そうはいうものの選手24人のうち医学生がなんと12人。これに歯学生1、獣医生1、薬学生1を加えた15人が医学関係の学生もしくはOBたち。しかも医学博士と文学博士と博士号取得者2人を含むというから、まさに学究チームと呼んでもおかしくない。ちなみに監督のK.ウォルシュは弁護士、主将ツースは新進の外交官という。このように監督はじめ選手団を専攻学の点からみていくと、これほど「個性的」な来日ラグビーチームは、日本協会80年の歴史を紐解いてもこの豪州大学選抜チームをおいて他にない。大学ラグビーを中心に発展をしてきた20世紀の日本ラグビーにとしては、戦後の復活にあたってオックスブリッジ両大学、豪州大学選抜…と、ラグビーの技術とともに大学生としても超一流のエリート集団にしぼった先人たちの選択に、改めて敬意を表するものである。