《黒衣のパワフル3軍団》


 このあと日本協会フランスのパリ大学クラブ「ピュック」、ニュージーランド大学選抜(NZU)、カンタベリー大学(NZ)、ダブリン大学(日本代表との対戦はなし)、イングランド大学代表、アイルランド大学代表…など、単独、選抜に限らず来日大学チームをあげていけば枚挙に追がないが、やはりさきの3大学やオックスブリッジ両大学連合とは違った意味で強烈な印象を日本に残して去っていったのが、オールブラックスコルツであり、NZU(NZ大学選抜)、そしてカンタベリー大学のニュージーランドが誇る黒衣の軍団である。
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1958年にラグビー王国NZから初めて来日したオールブラックス・コルツのプログラム

 なかでも豪州大学選抜に続いて1958(昭和33)年3月に来日したオールブラックスコルツのパワーラグビーのすさまじさは、関係者はじめ日本のファンが初めて目にするものだった。日本代表の主将としてこのチームと対戦した早稲田OBの梅井良治が、後にしみじみと述懐している。「いやー、スクラムにしろ、ルーズにしろFWの激しさ、強烈さは、ぼくのラグビー人生でも初めて経験するものだった。世界は広い。コルツですらこんなエキサイティングなラグビーをしなければナショナルチームの代表になれないんだな。レベルが違う」―と。
 その後、梅井良治はコルツの主将として黒衣軍団を率いた主将W.J.ウィナレーと就交を結ぶことになる。商用でW.J.ウィナレーが来日するたびに、東京でラグビー談義に花が咲いたというが、この来日コルツから2人のオールブラックスの主将が生まれている。一人はいうまでもなくW.J.ウィナレーで主将としてテストマッチ30試合に出場。またコリン.E.ミーズは55キャップを保持するばかりか、南アフリカでの第3回ワールドカップにはニュージーランドの選手団長として健在ぶりを世界のラグビー関係者たちにアピールしていたが、この2人のスーパースターに代表されるオールブラックスコルツの日本での成績は9戦全勝。日本代表とは2試合行い、福岡での第1テストマッチ(平和台)が34-3、東京での第2テストマッチ(秩父宮)は56-3とさらに点差が大きく開いて、オールブラックスコルツの完勝に終っている。
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最終戦を前にオールブラックスと日本代表の記念写真(秩父宮ラグビー場)

 ところで、日本協会からこの来日チームについては「オールブラックス」と発表され、日本のマスメディアもすべて「オールブラックス」の名称を使用したが、日本協会80年史での表記は「オールブラックスコルツ」とした。理由の第1として、いったんは「オールブラックスコルツ」の名称が決まりながら、後にNZ協会から「オールブラックス名を使ってもよい」との連絡があったこと。もちろん来日時の実態はコルツそのものだった。そして第2のそれは、1987(昭和62)年10月と2000(平成12)年11月に2度来日した真正オールブ―フックスと区別するため―の2点から。参考のため付記するなら、この間の日本-NZ両協会のやりとりについては、日本側の交渉役だった当時の日本協会専務理事杉原雄吉が日本協会機関誌にその詳細を綴っている。
 オールブラックスコルツとともに日本で猛威をふるったのが、やはりNZU(ニュージーランド大学選抜)である。日本協会に残る記録によると、NZUは1967(昭和42)年3月に初来日以来、1970(昭和45)年3月、1976(昭和51)年3月と3度来日し、日本代表と4試合しているが、勝利したのはいずれもNZUとなっいる。日本代表がようやく互角に戦えたのは4度目の来日となった1980(昭和55)年3月30日の国立競技場での対戦。25-25で初めて引き分けに持ち込むことができた。ちょうど新日鉄釜石全盛の時代だが、日本協会機関誌には引き分けに関連して次のような記事が掲載されている。要旨をお伝えする。
 「ちょうどNZ政府の文化交流使節とラグビーのコーチ、ヒウィ・タウロアさんが日本に滞在していました。タウロアさんは現在NZの一級コーチで、今年は多分NZジュニアーの監督になっている筈です。NZ遠征の高校代表、同じく23歳未満そして最後に日本代表が3~5日のコーチを受けました。日本代表がNZUと引き分けたのもタウロアさんのコーチのおかげでしょう。(後略)」(原文のまま)とあり、またタウロアさんも①選手団(日本代表)に自信を与えた②モールでも対等にボールがとれた③自信からくる「神風タックル」につながった―と引き分けた原因を分析している。
 そして2年後の1982(昭和57)年9月に、世界初の3国対抗ラグビーが東京で開催された。主催国を含めた3カ国が一堂に会してラグビーの国際大会が開かれるのは、当時としては異例のこと。このときは日本代表のほかイングランド大学代表とNZUの3チーム対抗だったが、9月26日の第2戦(国立競技場)で日本代表が31-15とダブルスコアで念願のNZUから貴重な勝利を日本ラグビーの歴史に刻んだ。これでラグビー先進国の大学チームに対するコンプレックスが完全に払拭されたとはいえないまでも、1988(昭和63)年10月1日の来日オックスフォード大学との対戦(●12-23)を最後に、日本代表が来日した外国の大学チームとの対戦に終止符を打ち、以後は日本選抜あるいは日本A代表が対戦の相手となっている。1990年代突入を前にというより、世界のラグビー界もワールドカップの時代(1987年)を迎え、ようやく日本協会もナショナルチーム本来の在り方に踏み切った。