《レッドデビルの来襲》


 ナショナルチームの来日2幕目は、1975(昭和50)年9月に羽田へ第1歩を印した伝説の世界王者ウェールズ代表だった。日本ではテストマッチ2試合を含めて4試合のスケジュールをこなして去っていったが、レッドデビル(赤い悪魔の愛称)のあまりの強さにただただ茫然自失。彼らの強さを言い表すぴったりの言葉を探しあぐねていたら、なんと日本協会機関誌の原稿の中にあった。日本協会理事、書記長小林忠郎が健筆をふるって、いま読んでも共感を覚える。伝説のレッドデビルを巧みに描いている。ここにその要旨を再録して21世紀の現代に伝えておきたい。
 「“赤い悪魔”とおそれられ、又親しまれ9月11日から26日までの半月の間、日本中をラグビー旋風の渦中に巻きこんで、静かに帰っていったウェールズ代表。現在世界で最も強いウェールズ。こんなチームが、よくぞ日本に来てくれた。と彼等が去ったいま、つくづく感謝と云うか感激と云って表すかその言葉が見当たらない。何かぞっとおそろしくもなってくる。日本ラグビーが始まって80年になる歴史の中で何が一番大きな事業だっただろうか、思えば戦後初めてオックスフォード大学を迎え、矢つぎばやにケンブリッジ大学、豪学生(大学)代表、オールブラックスコルツ、カナダ、オケ大連合、パリ大学クラブ、カンタベリー大学、NZ大学(選抜)、豪コルツ等々ラグビー界では世界の名門と云われるチームを招いてきたが、実のところ招び馴れていて、ウェールズを迎えるに当たっても、今までよりも一寸大仕掛けだと云う程度で、さほど気にとめていなかったと云ってもよい。ところがいざきてみると、そのスケールの大きさ、豪放さ、何をとり挙げてみても驚いたり、面食らったりだった。(中略)
 当時の新聞には『ウェールズが帰って行った。4ゲームで15万人の大観衆を集めて、協会はホクホク、その反面日本代表チームは国内の国際試合で史上最多失点の82点(第2テストマッチ)と云う屈辱的大敗、世界のカベの厚さを思い知らされた日本ラグビー。レッド・デビル(赤い悪魔)はさまざまなツメ跡を残して帰って行った。残ったのはブームとゼニだけ』とあったが、残ったのはブームとゼニだけだろうか?(後略)」と、筆者は自らの心に問いかけながら、新聞記事が指摘した「ゼニ」について、大まかながらウェールズ代表来日ツアーのバランスシートで原稿を結んでいる。貴重な数字の開示といえるだろう。
収入  102,000,000円
内訳 入場料収入4試合    81,000,000円
   放送料        16,000,000円
   プログラム関係     5,000,000円
支出   53,000,000円
内訳 航空運賃及び国内旅費 11,000,000円
   滞在諸費       19,000,000円
   試合関係諸費     18,000,000円
   日本側諸経費      5,000,000円
差引   49,000,000円
写真・図表
来日ウェールズ代表との最終戦。「赤い悪魔」の猛攻に日本代表は大敗(国立競技場)

 レッド・デビルはわずか半月の滞在で日本協会に5000万という大金を残していってくれた。現在の金額にすればいくらになるだろう…と、ついつい考えてしまうが、お金の話はここらでタイムアップ。本題に戻ってウェールズ代表についての記述をつづけていこう。忘れられない外国選手として、過去にオックスフォード大学のカネル、ブーブバイヤー、豪州大学選抜のツース、フェレプス、オールブラックスコルツのウィナレー、ミルズ、ウォルシュらの名が頭に浮かんでくる。すべてラガーマンとして世界第一級の名選手、大選手ではあったが、小林忠郎も記しているように1975年のウェールズ代表は、チームとしても、また個々の選手としても「超」の字が上につくスター軍団ではあった。
 まず主将のバックローセンター、現在でいうNo.8のマービン・デービスはじめSHのガレス・エドワーズ、SOのフィル・ベネット、WTBのJ.J.ウィリアムズ、ジェラルド・デービス、そしてFBのJ.P.R.ウイリアムズ…。31年経ったいまでも名前だけではない。彼らが日本で披露してくれたプレーぶりが鮮烈な「映像」となって頭の中をかけめぐる。ボールのあるところに必ずといってもいいほどマービン・デービスの身長があり、フィル・ベネットにボールが渡ると変幻自在の動きで日本の防禦ラインを破っていく。
 技術の面では日本ラグビーのキーパーソンともいうべき大西鉄之祐がウェールズについて書いている。「…多彩のプレーを行って我々を魅了し尽くしたが、ゲインライン突破のための第1次攻撃戦法は次の五つに過ぎない。①SH、SOによるキック②SHのサイド攻撃③No.8のサイド(含ピールオフ)攻撃④SOとCTBによるループとクロスの中央突破⑤FBのライン参加―である。それに加えるならカウントアタックがはいる。しかもこの戦法をやることのできる中心的プレーヤーは、シェル(SH)、ベネット(SO)、デービス(No.8)、グラベル(CTB)、J.P.R.ウィリアムズ(FB)である」―と。(日本協会機関誌から)
 日本代表は第1、第2テストとも完敗した。前回来日のイングランド戦では互角に近い試合を演じて英国の新聞に大きく報道された日本代表ではあったが、5年後のウェールズ戦では、日本代表のどこが、どう違ったのだろうか。大西鉄之祐によると「展開攻撃の連続に欠けた」となる。そういえばイングランド戦の善戦は、この80年史でも「接近、展開、連続」の大西戦法がもたらしたことを理由としてあげてきた。さらに大西鉄之祐はいう。「…来征チームの不利は、環境の変化、気候の相異、疲労の累積等である。今回のウェールズもあれだけの実力を持ちながら、四試合を通じて前半精力の温存につとめ、点差が開いてから後半思い切った攻撃をかけている。したがって先ず彼等の疲労をさそうには、我々の最も得意とする展開攻撃を連続して行うべきであった。特に世界一のFB、J.P.R.ウィリアムズを前にしてハイパントをあげるなどナンセンスと言わざるをえない。再三彼のカウントアタックをくらってゲインラインを突破されトライチャンスをつくられている。…」―と。(日本協会機関誌から)
 自他ともに世界一を認めるレッド・デビルは日本協会の懐を潤してくれるとともに、グラウンドの対決では第2テストマッチで日本のラグビー史上最多の82得点を記録するなど、桁違いの強さを見せ付けたが、イングランドウェールズ2カ国とのテストマッチの明暗を分けた最大の要因。それは大西鉄之祐によって編み出されたジャパン独特の「展開、接近、連続の戦法ができたか、どうか」という点が、戦術、あるいは技術に詳しい専門家たちの一致した見解だったようである。「ここ数年来外(国)人チームに対して実効をあげてきた実験ズミの戦法なのである」とまで大西鉄之祐は云いきっているが、「実験ズミ」とはもとより1968(昭和43)年5月~6月にかけてニュージーランドに遠征した日本代表が、この戦法を駆使してオールブラックスJr.を23-19で破った大金星を指しているのだろう。
 「赤い悪魔」のニックネームを誇るウェールズも、2001(平成13)年6月に2度目の来日を記録しているが、日本のラグビー関係者の度肝を奪った1975年の初来日から26年。四半世紀を越える歳月の流れは「悪魔」のニックネームを返上していたようだ。サントリーとの第1戦に41-45で敗れ、第2戦の日本選抜戦でも33-32と、わずか1点差のきわどい勝利であった。さすがに第3戦のテストマッチではようやく目が覚めたのか、それでも日本代表の挑戦を64-10の大差で退けて面目を保つことができたようだが、往年の凄みはすっかり消え去っていた。こうしたウェールズ代表の衰退が来日を遠ざける原因だったのか、あるいは1993(平成5)年に9月に日本代表ウェールズ協会の招待で遠征したさい、初戦のウェールズA、最終戦のウェールズ代表(テストマッチ)に大敗したことが、響いていたのか…。そういえばウェールズ関係者の間で密かに囁かれていた話を思い出す。「年々大型化していく南半球の3カ国に対し、サイズで劣るウェールズとしては日本の展開ラグビーからヒントを…と考えていたが、FW主体のラグビーでは参考にならないな」―と。それでもウェールズ協会は26年ぶりにナショナルチームを日本に送ってきてくれた。
ウェールズ代表日本ツアー戦績(1975年9月)】
①9月15日(国立=ナイトゲーム)
 ●早大近鉄連合3-32ウェールズ代表
②9月18日(国立競技場=ナイトゲーム)
 ●日本B代表7-34ウェールズ代表
③9月21日(花園=第1テスト)
 ●日本代表12-56ウェールズ代表
④9月24日(国立=ナイトゲーム、第2テスト)
 ●日本代表6-82ウェールズ代表
日本代表対戦メンバー】
日本代表対戦メンバー表