《第2次ウェールズ遠征の成功》


 ラグビー関係の方、年配のラグビー愛好の方々なら、当時の環境のなかでオールブラックス・ジュニアを破った日本代表の勝利が、日本ラグビーの歴史のなかで、どれほど価値のある、そして大きな勝利であったかは十分ご理解いただけるだろう。この「展開・接近・連続」の大西戦法については、目良篤が初来日したイングランド代表とのテストマッチで、日本代表が3-6の大接戦を演じた最大の理由にあげていることを前述しておいた。しかし、この善戦はホームでの試合だった。多くの不利な条件が重なる海外遠征での勝利、あるいは感動を呼ぶ緊迫した試合といえば、オールブラックスJr.からの勝利と、1983(昭和58)年10月の第2次ウェールズ遠征で、レッド・ドラゴンと24-29の大接戦を繰り広げた日本代表の1試合を除いて、ほかには見あたらない。
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ウェールズ遠征で高い評価を得た日本代表(1983年アームズパーク)

 日本協会機関誌が特集記事を組んでいる。タイトルは「成功したウェールズ遠征」。内容もビッグゲームにふさわしく、書簡、手記、新聞報道、観戦記…と、内外からの多種多彩な企画で充実した編集をしているが、なかでもひときわ光彩を放っているのが「ザ・タイムズ」の記事である。機関誌がタイムズの記事からとった見出しは「83年のウェールズはまだまだ強くなる」。そしてサブタイトルの「ウェールズ日本が残していった教訓から学べ」は、どちらがラグビー先進国か錯覚すら覚えるほど、日本人にとってはうれしくもあり、気恥ずかしくもある表現である。「ザ・タイムズ」の記事で往時の日本代表を偲んでみよう。
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秩父宮殿下に第一ウェールズ遠征のあいさつをする日本代表

 「スタンドから出てきた1人の男が(いった。)『今日の試合は面白かったが、あれは本当のラグビーではない』―。悲しいことだが、こういう“やから”は走るラグビーはラグビーではないと思っている。
 昨今の、FWのこぜりあいに終始するウェールズ・ラグビーのワンパターンが彼等のラグビー観をこんなものにしてしまったのだ。ボールが激しく移動するオープンゲームは楽しいものだが、真剣勝負ではないという考え方が出来てしまったのだ。
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1983年の第2回ウェールズ遠征で、日本代表の健闘を報道する日本の新聞各紙

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日本代表の活躍は現地ウェールズの新聞各紙も絶賛

 ウェールズはこの時点で、日本チームが見せてくれたプレーを学ばなければならない。いかにウェールズで走るパスの基本が忘れられてきたかを痛感する。
 ウェールズ人の中にもこれを心配して警告したものもいるが、彼等は昔の郷愁にとりつかれた者と馬鹿にさえされたが、今回の日本チームの活躍は彼等の警告が正しかったことを証明している。
 ボールの獲得率が悪く、パワーのないFWを持つことも、あながち悪いことではないかも知れない。それを補うために他の面の技量を磨かざるを得なくなるからだ。必要に迫られて、日本はあらゆるプレーヤーの可能性の限界を追及し最大限に活用したのだ。それが今回すべて効を奏したといえる。彼等はラインアウト・ワークを十二分に駆使した。その効果はてきめんでラインアウトのボール獲得数はウェールズを上回っている。
 ウェールズのコーチ、ベバン氏が最も感心したのは日本のボールヘの集散の早さとサポート・プレーであった。
 こういった大変良い点もあったが、まだまだ日本はタックルのみに追われる危なかしい場面もしばしば見られた。
 松尾の卓越したリードとコントロールのお陰で過去の日本チームにありがちな無用なガヤガヤした動きが影をひそめていた。
 幸いにも先週のニューブリッジと同様ウェールズも果敢にオープンゲームを展開した。ある程度成功したが、日本のプレーと対比してハッキリした違いがあった。日本のパスは自信に満ち、のびのびとやっていたが、ウェールズはビクビクと忘れかけていた技を思い起しているようであった。
『たとえ負けてもわれわれは勝ったような気がする』と金野団長がいっていたが、今回の成績は、日本をラグビー最強国グループの一員に格上げするものである」(10月25日付けタイムズ紙から)
 さすがに世界のクオリティーペーパーの記事。いっさい感情に左右されない、そして事実に撤した表現は見事なものだ。両チームが80分の攻防にみせたそれぞれの長、短所を鋭く指摘しているところなど、ベテラン記者のペンならではと関心させられる。ただ、「最強国グループヘの格上げ…云々」という最後のフレーズは、やはり外国人特有の外交辞令と受け止めるべきだろうが、それはともかく、世界で最も権威のある「ザ・タイムズ」から絶賛された「桜の勇者たち」が、2003年のある一夕、都内に会して記念の20周年を祝って杯を傾けた。団長金野滋もかけつけた。監督日比野弘、主将松尾雄治の元気な顔もそろった。こうした世界に名をはせた日本代表の会としては、前述のオールブラックス・ジュニアから金星を記録した「桜とシダの会」が有名だが、これら先人たちの会につづくジャパンの会が増えることは、とりもなおさず日本ラグビーの躍進ぶりを間接的に象徴するともいえるだろう。
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日本代表の第1次ウェールズ遠征から。チャージするのはSH宿沢

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第1次ウェールズ遠征の日本代表。テストマッチ前に会場のアームズパークで記念撮影

 これは後日談になるが、W杯の中間年にあたる1993(平成5)年にウェールズ協会から日本代表に招待状が届いた。ラグビーが国技といってもよいウェールズを震撼させたあの第2次ウェールズ遠征からちょうど10年。W杯の強化に格好の遠征と日本側は考えていたようだが、ホストのウェールズ協会の意図はW杯対策という意味では同じであっても、彼らには、日本代表招待に対する大きな期待が秘められていた。たまたまレフリングの国際会議出席のためカーデイフに来ていた真下昇(現日本協会副会長・専務理事)が、途中から日本代表に同行。確か第4戦の試合前だったと記憶する。ウェールズ協会役員との会話の中から聞きだした話を耳打ちしてくれた。それは次のような内容だった。
 「サイズに劣るウェールズがオールブラックスやスプリングボックスに対抗していくには、あの10年前の『走る日本ラグビー』を学ぶ必要があった。そのための日本招待だったんだが、今回の日本代表はFW戦法主体のラグビーで、われわれの思惑はすっかりはずれてしまった」というものだった。そういえば日本協会機関誌が10年前に掲載した「ザ・タイムズ」のサブタイトルは「日本が残していった教訓から学べ」だった。また「レッド・デビル」の異名で怖れられた第1次来日ウェールズ代表でSHの神さまといわれたガレス・エドワーズも10年前の日本代表を「オールブラックスの持つサポートプレーとフランス代表の持つランニングラグビーをまじえたものを二つ同時に日本ラグビーに見ることができた」(日本協会機関誌=盛美堂出版提供)と激賞している。「失われた10年」という言葉をよく耳にする。第2次遠征と第3次遠征の間には10年の時の経過があった。ラグビー先進国は時計の針を戻してまでも、「ランニングラグビーを」と願い、世界を追いかける日本は「時代の流れにまかせて新しいラグビーを」と発想する。ウェールズ遠征を巡る10年の時の歩みはいろいろなことを考えさせてくれる。
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ウェールズ代表の記念撮影

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ウェールズ代表とのテストマッチで攻撃に移る日本代表バックス

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スクラムからTB攻撃しかけるウェールズ代表

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イングランドU23代表と対戦する日本代表。このあと日本代表ウェールズへと転戦する

【第2次ウェールズ遠征日本代表の戦績】
①10月8日
 ○日本代表 17-13 アバティラリー●
②10月12日
 ●日本代表 15-28 ペンブローク・カントリー○
③10月15日
 △日本代表 21-21 ニース△
④10月18日
 ○日本代表 19-14 ニューブリッジ●
⑤10月22日(テストマッチ)
 ●日本代表 24-29 ウェールズ代表
日本代表テストマッチのメンバー】
日本代表テストマッチのメンバー表