日本協会が代表選手団を送っている大会には、1969(昭和44)年3月にスタートしたアジア大会、1987(昭和62)年5月に新設されたW杯、そして1996(平成8)年5月始動のパシフィックリム・チャンピオンシップがある。いまでは海外交流の主体はこちらの方に移ってしまった感すらあるが、ここでの総括は伝統的というか、日本代表の単独遠征とでもいうか、招待国あるいは遠征を受け入れてくれたユニオン所属チームとの対戦結果(海外遠征表を参照)にしぼって検証した。
この項の最初に記したように、戦後の日本代表が初めて海外へ出かけたのは1963(昭和38)年4月のカナダ太平洋岸だった。以来、アマチュア時代の最後となった2000年11月のフランス・アイルランド遠征まで、訪れた国はホームユニオン4カ国をはじめ12カ国18回に及んでいる。ただ単純計算では18回となっているが、ヨーロッパ遠征のケースでは英国=フランス、英国=イタリア、フランス=オランダ。また南半球遠征ではニュージーランドと豪州、アメリカ大陸でもカナダとアメリカなど、隣接の国、あるいは近隣の国をそれぞれ訪問国に組み込む複合遠征が計画されるようになった。遠征の合理化とでもいうのだろうが、複雑なのは連合王国の英国遠征である。政治の面では連合であってもユニオン自体はそれぞれ独立の機関。したがってラグビーの世界では4ホームユニオンとなる。日本代表の遠征国をみても、表現では英国遠征は2度あるが、イングランド、ウェールズ両ユニオンヘの遠征であったり、英国・イタリア遠征と発表されても、その内容はスコットランド、ウェールズ、イングランド、そしてイタリアの4カ国遠征ということになる。しかも、これにウェールズだけの遠征、ウェールズとフランスとを組み合わせた遠征などもあって、複雑極まるのが実情といえるが、一度の遠征でいろいろタイプの違ったラグビーとの遭遇は、チーム強化という遠征本来の目的からいえば日本代表にとってメリットの大きいヨーロッパ遠征ともいえるだろう。
次にこれら18回の遠征で日本代表はどのような足跡を残しているのだろうか。日本協会の記録によると、さきに詳述したオールブラックスJr.戦とNZU戦は、ともにテストマッチと認定されているが、テストマッチの定義が「ナショナルチーム同士の公式試合」とあるところから、とりあえずここでの計算では数字から除外した。また日本代表は3次にわたってNZに遠征しているが、オールブラックスとの対戦が一度も組まれていないのも同国へのツアーの特色といえば特色でもある。さて、第2次ウェールズ遠征でレッド・ドラゴン関係者たちの心胆を寒からしめた試合も含めて数字にしてみたところ、テストマッチの成績は28試合で2勝25敗1分け。さらにCAP対象試合も含めたクラブチームや大学など遠征全試合では128戦44勝79敗5分けとなる。テストマッチに限って海外遠征と日本国内での成績比較(アジアと大会関係を除く)をすると、国内での成績は、1994(平成6)年以降のフィジー(2勝)、ルーマニア、アルゼンチン、スペイン(各1勝)から記録した5勝を加えてトータルが8勝20敗。海外遠征の2勝を大きく上回る。遠征ではいかに勝つことが難しいかを表す数字ともいえるが、その2勝1分けも1986(昭和61)年5月の北米遠征でアメリカと引き分け、カナダから記録した勝利ということを考えると、遠征で勝つことの難しさが数字にはっきり映し出されている。
ここまではアマチュア時代の数字だが、2001(平成13)年のオープン化宣言以後の遠征記録も芳しいものではない。第5回W杯出場の翌2004(平成16)年11月に日本代表はスコットランド・ウェールズ・ルーマニアの3カ国へ遠征し、テストマッチ3試合に全敗。2005(平成17)年4月にはフランスでの強化合宿のあと、南米のウルグアイ、アルゼンチンに遠征しているが、ここでもテストマッチ2試合に敗れている。IRB世界ランキング8位のアルゼンチンには36-68とほぼダブルスコアで敗れたものの、世界ランク18位のウルグアイとは18-24の接戦での敗戦ではあった。ランキング20位の日本が勝てないのは当然という見方もあるだろうが、次の第6回W杯を視野においた新編成の日本代表チーム強化活動と考えれば、遠征の結果も未来志向でとらえていくべきだろう。日本ラグビーのオープン化については、後に詳述するが、2001年にオープン化を宣言したといっても、本格的な始動は2003年度以降のこと。時間的にもこれから、というのが日本代表強化の実態といえる。