1. 昭和40年代~50年代


(1)レフリーランク策定の歴史
 昭和45年レフリーソサェティーは、試合数の増加・協会主催試合の増加に伴い、レフリー不足が深刻な問題として浮上してきた。そこで、当委員会は各都道府県にレフリー委員会設置を要請し、その後3ヵ年でレフリー公認制を導入することを決めた。また、委員会の機能化はレフリー育成のための施策や三地域公認レフリー認定講習会の開催および地方への情報伝達の徹底化を審議してきた。
 翌昭和46年には中央レフリー研修会が開催され、三地域から選ばれた8名のレフリーと候補レフリー計9名、及び全国8ブロックから選出された当番県幹事長が参加して、ルール委員会、技術委員会のメンバーとともに菅平で研修会を開催した。
 昭和47年には、各都道府県のレフリー委員長が中央研修会に出席し、この時から各支部へのルールの改正点やレフリング留意点等の伝達の徹底化を図った。昭和49年には全国のレフリーに対して、レフリングの主旨の徹底と啓蒙・研鑽を願って、機関紙にレフリーソサエティ委員長が「レフリーの指針」を起稿した。
 レフリーランキングについても、昭和30年代は三地域がトップレフリーを独自に決めていたが、全国大会等の開催に伴い、昭和40年代前半には委員会の審査を経て日本協会公認レフリーが誕生した。
 昭和45年には日本協会公認レフリーが23名いたが、昭和47年には3名、昭和50年には6名と精選された。昭和52年にはレフリー審議委員会が設立され、日本協会公認レフリーの推薦を担うようになった。昭和51年からトップレフリー研修会が菅平で開催され、資質の向上を図った。
 現在の公認A級・公認A1級制度になったのは昭和54年からで、A級5名、A1級7名が選ばれ、その下に公認B級(A1候補)のランクが設けられ、12名が選出された。
 年度により、A級、A1級の人数は若干の変動はあるものの、レフリーのランキングの呼び方は変わっていない。(平成11年にA2制度ができたが、A2は日本協会公認ではない。)
 そして、公認A級は、国際試合、日本協会主催試合、地域協会主催試合を担当し、公認A1級は日本協会主催試合、地域協会主催試合を担当、公認B級は主に地域協会主催試合を担当として、担当区分も明確化された。
 昭和57年には、レフリー審議委員会を解散し、主たる仕事であった①レフリーの格付け ②レフリー指名 ③レフリングの評価及び助言をレフリーソサェティーに委譲した。
 昭和50年代は、トップレフリー研修会はもとより、三地域トップレフリー研修会、若手有望レフリー研修会等を開催し、レフリングの向上のみならず、若手育成にも非常に力を注ぎ、現在のレフリー委員会の土台が構築された。また、昭和58年からは海外派遣研修制度を導入し、若いレフリーに多くの経験を積ませたく、世界を視野に入れた育成施策としてNZのウエリントン協会とのレフリー交換・交流が実現し成果をあげている。
(2)レフリー派遣と海外からの招聘
 昭和40年代は、交流の機会は非常に少なく、昭和46年にイングランドチームが来日した折り、帯同で英国のトップレフリー、クリス・タイラー氏が来日し研修会を開催している。昭和48年には、ウェールズ協会よりトップレフリー、ジョセフ氏を招聘し、講演を行った。昭和50年代にはいるとウェールズ(昭和50年)、フランス(同53年)、イングランド(同54年)カナダ(同56年)、フランス(同59年)とテストマッチが行われ、IRBから中立国のレフリーの指名でスコットランドアイルランドウェールズなどからトップレフリーが来日し、彼らのレフリングを目の当たりにすることができ、日本と世界のレフリングの違いを体験できたことは大きな財産であり、更に研鑽を積む必要性を感じた。
 海外への派遣は、アジア大会への派遣が主であったが昭和54年に高校代表及びU23のNZ遠征にもレフリーが派遣されるようになった。58年から実施された英国研修派遣でようやく門戸が開かれた。(資料2、資料3参照)
(3)日本選手権の変遷
 昭和39年に大学選手権の優勝チームと社会人選手権の優勝チームが対戦し、日本一を決める日本選手権が開催された。第1回こそ3月に開催されたが、第2回大会からは1月15日、当時の「成人の日」に行われ、観客席には振り袖姿の女性が目につくようになり、日本の正月の風物詩となった。第11回大会からは、舞台を国立競技場に移し、会場は満員のファンで埋め尽くされ、手に汗握る熱戦が展開された。新日鉄釜石の7連覇や神戸製鋼の7連覇など、長い歴史の中に一つの偉業として語り継がれている。第33回大会からは、それまでの大学選手権優勝チームと社会人選手権優勝チームが戦う形式から、社会人リーグ上位5チーム、クラブチーム1チーム、大学チーム2チーム、などが出場し、トーナメント方式の大会へと変わった。その後、社会人関係は、トップリーグが開幕し、トップリーグの上位のチームが参加することとなった。
 レフリーにとっては、日本選手権の笛を吹くことが大きなステータスであった。(第1回から昨年までの試合結果、担当レフリーは資料4を参照して頂きたい。)