《5大会連続出場と世界のレベル》


 第1回ワールドカップは開催国のひとつニュージーランド(NZ)のオールブラックスが初代チャンピオンの座についた。大会前からオーストラリアとともに優勝候補と下馬評の高かったオールブラックスである。
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第1回W杯で豪州に善戦の日本代表。左は生田、右は河瀬

 大会に参加してみて日本協会はいろいろな点で驚かされる。大会後に発表された数字の数々がものすごい。11会場につめかけた観客の総数が50万1,000人。テレビ放映国は17カ国におよび、世界で3億人がテレビでRWCを観戦したという。報道に携わった通信社をはじめ新聞社や雑誌社(テレビ局を除く)などメディアの総数が445社。英国ホームユニオン中心のファイブネーションズのような対抗戦を至上のものとしてきた世界のラグビー界にとっては、衝撃的なRWCの開幕だったわけである。もちろん、これを機に日本協会の意識にも大きな変化が起った。
 初戦のアメリカ戦で勝てる試合をプレースキックの不調で落としたことは大変残念だった。カンタベリー大学OBのD・ホークリ─(当時NZ大学評議会委員)が日本の新聞に「トライのあとのコンバートも含め、日本代表は8つのゴールを外した。このうち5つは非常にイージーな距離と位置のもので、敗因をあげるならキックの失敗をおいてほかはない」と感想を寄せているが、どの新聞にもこの点を敗因としてあげている。スコアが日本18−21アメリカと3点差だっただけに、取材にあたった日本の記者たちはいっそう、その感を強くしたのだろう。
 RWCの歴史は浅く、まだ20年5大会が行われただけではあるが、日本協会のRWCに対する意識、対応は第2回RWC大会の予選前に激変した。第2回の「宿沢ジャパン」が予選プール最終のジンバブエ戦で大勝した貴重な1勝は、当時の最強メンバーで編成したフィフティーンであり、彼らのパワーと技術を全開させた監督宿沢広朗の手腕であろう。もう1点あげるとするなら日本協会の強力なバックアップである。宿沢ジャパンの貴重な1勝獲得にいたる経緯を再現してみよう。
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第1回W杯から

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第2回W杯アジア太平洋地区予選の日本vs.韓国戦から。日本代表は2勝目を記録して2連続本大会出場を決める

 第2回大会からは地区予選をクリアして初めて本大会の舞台を踏むことになる。そこで日本協会は強化委員長に白井善三郎を起用。監督にはロンドン駐在8年のキャリアを持つ宿沢広朗をもってきた。日本代表のキャップ保有者ではあっても、協会選抜チームの監督、コーチ未経験の宿沢広朗に白羽の矢を立てた最大の理由は、ロンドンに在って当時の英国ラグビーに精通しているという一事にほかならない。この新鮮な人事にはだれもが納得し、また代表選考にあたっても、日本協会強化委を中心に、当時としては最強の日本代表が選ばれた。アジア太平洋地区予選で韓国トンガを破って代表の座を勝ち取ったのも、当然といえるだろう。
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第2回W杯アフリカ予選決勝から。ジンバブエ代表の調査にあたった日本代表の宿沢監督撮影

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第2回W杯アジア・太平洋予選突破を記念した機関誌の表紙

 そして、もう1点は、RWC出場が決まったあとの日本協会の対応である。本大会の予選プールで対戦するスコットランドアイルランドについては過去の国際交流、あるいは宿沢広朗手持ちのデータ類など、事前情報の収集という点でとくにこれといった問題点はなかったが、日本にとってアフリカ大陸のジンバブエという国、ラグビーについては全く未知数。そこで日本協会ジンバブエが出場するアフリカ予選決勝に監督宿沢広朗を派遣して情報収集にあたらせたほか、RWCの年の1991(平成3)年3月にジャパンBを送ってジンバブエとの5試合を通じて相手の実力を把握するなど、周到な準備で本大会に備えている。日本代表が過去のRWC5大会で記録した唯一の勝利は、こうした事前の調査、周到な準備によってもたらされたといっても過言ではない。
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ジンバブエ遠征の日本B代表の第4戦から。日本協会はW杯で対戦する未知の国ジンバブエチーム戦把握にB代表を派遣

 ここまでのRWC2大会はアマチュア時代の祭典であり、大会参加各国と日本代表のレベルを評価するなら、IRB加盟8カ国に次ぐ第2グループに位置するといえるのではないだろうか。第1回大会ではイングランドに7−60、第2大会ではスコットランドに9−47と大差をつけられたが、第1回大会のオーストラリア戦は23−42、第2回大会のアイルランド戦でも16−32と、負けるにしても23点、16点と得点をあげるなど、攻撃面で一矢も二矢も報いている。とくに第2戦のアイルランド戦の得点内容を見てみると、いっそうその感が強い。トライ数の比較では3−4とわずか1本差。トライ後のコンバージョンも2−2でイーブン。勝敗を決定的にしたのは4PGということになる。ランズダウンロードで観戦していて、ノーサイドの笛が鳴るまで「負けた」という気持ちがしなかったのも、このスコアの内容を見てもらえば理解いただけると思うが、どうだろう。最終戦のジンバブエ戦にいたってはトライ数が9−2。その9トライの内訳は吉田、増保の両ウイングが各2本、CTB朽木も2本、堀越─松尾のハーフペアが各1本、そして最後の9本目がフランカーのエケロマとなっている。ジャパンのスピードと展開ラグビーが花開いた最終戦だった。
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第2回W杯から

 第3回大会(南アフリカ)は、単独の国で開催された初のワールドカップとなった。開幕式ではマンデラ大統領が挨拶をした。
 日本代表は、白井善三郎団長のもと、小薮監督が陣頭指揮を執った。1995年は国際ラグビー界にとっても歴史的な年だった。その秋に、IRBの理事会でアマチュアリズムが廃止され、「オープン化」が実現した年である。
 つまり、南アフリカのワールドカップでは、強豪国の選手たちは、当初からその後始まるであろう「プロ契約」を意識して大会に臨んでいた。この大会で活躍すれば、より良い条件で契約できるという、いわば「仕事」の場であった。純粋なアマチュアリズムを貫く日本代表にとってはあまりも大きな壁が立ちはだかっていた。
 結果として、予選プールの第1戦、対ウェールズ戦では、10−57。第2戦の対アイルランド戦でも、28−50と、一方的な試合になってしまった。
 さらに第3戦では、オールブラックスに17−145で大敗してしまう結果となった。この試合は、先の2試合に負けて戦意を喪失している日本代表に対し、ふだんリザーブの席にいてなかなかアピールできないオールブラックスの控え選手たちが、80分間、全く容赦しない攻撃を見せたことにも起因する。
 日本代表は、世界と広がりつつある格差を肌で感じて帰途についた。
 プロ選手であれば、午前と午後の1日2回の練習が可能である。およそ日本のチームでは考えられない程の環境の差があり、そこから生まれる実力の差を縮めていくことには、大変な努力が必要であろう。
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1995W杯日本代表の会場となった南アフリカ・ブルームフォンテーン空港と日本代表の左から吉田、松田、梶原の3選手

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第3回W杯から

 1999年に英国を中心に開催された第4回ワールドカップは、河野一郎・強化推進本部長、平尾誠二監督率いる日本代表が参加した。主将は、日本代表初めての外国人選手、アンドリュー・マコーミック。
 この年の平尾ジャパンの前評判はよく、春のパシフィックリム選手権でも優勝するなど、本大会での活躍が期待された。前大会(1995年大会)で、ニュージーランドに大敗していただけに、ラグビーがオープン化されてからの初のワールドカップに平尾ジャパンがどのように挑戦するかが、おおいに注目された。
 ところが、春の大会では制したサモアに、初戦で9−43の完敗。改めて本大会の厳しさを思い知らされた。続くウェールズ戦も、15−64で完敗。最後のアルゼンチン戦も12−33とするのが精一杯だった。
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1999W杯の主会場となったウェールズカーディフ・ミレニュアムスタジアム

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第4回W杯から

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 2003W杯出場の日本代表を応援するサポーターたち(豪州タウンズビル)

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2003W杯日本代表が本大会前に豪州A代表と対戦。突進するのは箕内主将

 それは世界のプロ化に日本が置き去りになっていたことである。日本のラグビー界もようやく2001(平成13)年にオープン化という表現でプロ化への道を歩みはじめたが、世界の実態は1995(平成7)年10月のIRB理事会がプロ解禁の決議をする以前にプロ化が進んでいた。単なる数字の計算では6年の立ち遅れとなるが、実質的にはそれ以上に遅れた日本のプロ化ということになる。日本ラグビー発祥以来の伝統ともいうべきアマチュアリズムの呪縛が、世界の潮流に乗り遅れた大きな理由ともいえるだろう。この日本協会創立80年史の前史に目を通していただけば、日本協会設立後もアマチュアリズムが日本ラグビーの精神的な支柱であったことがご理解いただけると思う。これが日本ラグビー107年、日本協会80年の歩みであるが、歴史にも大きな転換を求める節目が訪れる。
 2003年にオーストラリアで開催された第5回ワールドカップは、真下昇団長の下、向井昭吾監督が采配を振るった。
 日本代表は、平尾監督のあと、向井監督にバトンタッチされてから、2001年にオープン化に踏み切った。日本代表のスタッフは基本的にプロ専従となり、日本代表の活動期間中は、選手たちも各企業からの出向契約となった。大会直前には、オーストラリアからマーク・ベル、マーク・エラの両コーチも招聘し、充実した指導陣の下で、日本代表の成長の跡が問われることになった。
 予選プールは4敗ながらも、会場のタウンズビルには大勢の地元ファンが足を運び、スコットランドフランスなどの強豪国を苦しめたことから、地元メディアが“BraveBlossoms”(勇敢な桜たち)というニックネームをつけたのもこの時である。向井監督は、「世界の背中が見えた」と表現した。
 タウンズビルで、『サムライスピリット』を語り、たびたび地元のメディアにも取り上げられた真下昇団長は、タウンズビルの人気者となり、後に市長から“名誉市民”の称号が与えられた。「日本ラグビーここにありき」を世界にアピールできた大会となった。
<予選プール結果>
 対スコットランド11−32
 対フランス29−51
 対フィジー13−41
 対アメリカ26−39
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第5回W杯から