1945(昭和20)年〜1954(昭和29)年までのルール改正の内容を表1に示した。
戦後の荒廃した日本スポーツ復興期の中で、ラグビー界はいち早く、そして積極的に復興がなされた。終戦から39日目の9月23日には、ラグビーのゲームが関西で実施され、この試合は全てのスポーツ競技種目の中でも先陣を切った記念のゲームであった。これを皮切りに、東京ラグビー場(現在の秩父宮ラグビー場)の完成、実業団大会(社会人大会を経て現在トップリーグ)、新制大学大会の開催、協会機関誌の発刊、さらには国際交流の復活等、日本ラグビー界は急速に整備され、普及復興は軌道に乗っていった。
安全面からのアプローチもいち早く行われ、関東協会の昭和24年医務委員会の設置を初めとして、翌年関西協会にも医務委員が設置、その後委員の数は年々増加していった。こうした急速なラグビー競技の復興策が他のスポーツ競技種目より、より早く可能になった要因に一つとしては、戦前、昭和10年代の、わが国におけるラグビー隆盛時代のラグビーの普及、発展、プレーヤーへの影響が、急速な再興を支えたことを忘れることはできない。33)
昭和20年代後半になると、日本ラグビーの復興策はさらにスピードを増して軌道にのり始め、昭和27年には、ラグビーの母国イングランドからオックスフォード大学の来日を皮切りに、世界のラグビー界とも積極的な国際交流も始められた。この20年代後半ケンブリッジ大学来日でもたらされた南アフリカ共和国、ダニークレイブン氏の理論は、その後の日本ラグビー界のプレーに多大なる影響を及ぼした。その後、日本独自と言われる“接近、展開、連続”の理論を生み出し、世界のラグビーへの対抗戦術が考えられたことはよく知られている。27,28)
また、この年代は関東、関西の対抗戦や大学と大学間の試合で、幾度となくルール解釈やスケジュールの問題がクローズアップされ、様々な論議が尽された。そして、その具体的な対策も早急に講じられた。これらのルール解釈の問題は、日本国内だけの問題ではなく世界的な課題でもあった。1947年、南アフリカ、NZ、オーストラリアの南半球3カ国がIRFBへ加わり、IRFBメンバーユニオン国が7カ国に増加、ルール問題や競技運営などさらに様々な議論が尽された。メンバーユニオン国の増加は、ラグビーが英国だけで行われていた時代のスポーツから脱却し、世界のスポーツへと普及発展する過程で重要な意味を持つものと思われる。そしてこの後、IRFBで論議された各項目は、その後の世界ラグビーへの方向性を示す上で重要な論議であった。
【昭和20年代】(表1)